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ウジェーヌ・イヨネスコ『犀』
ウジェーヌ・イヨネスコの演劇『犀』を観てきた。「犀(サイ)」というあまりに印象的なタイトルは一度聞けば忘れることができない。私が公演を見に行ったのも、このタイトルに込められた意味に興味をもったからだ。

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作者のウジェーヌ・イヨネスコはフランスの劇作家でルーマニア生まれ。小説家でもあり『大佐の写真』や『孤独な男』などの小説は邦訳もされている。サミュエル・ベケットと同じく不条理な前衛劇を発表していたが、最初はなかなか評価されなかったようだ。しかし彼の小説を基にした戯曲『犀』が1960年にジャン=ルイ・バローによって上演されてから知名度が上がる。その後、長い空白を経て2004年にエマニュエル・ドゥマルシー=モタ(パリ市立劇場芸術監督)によってリバイバル上演され、2011年の再演によって世界各国で上演するワールドツアーが始まった。今まで12か国で上演され、今回ようやく日本にやってきた。

物語の舞台はフランスのある街。私はパリを想像したが、劇中に乾燥地帯のカスティーリャという表現が出てきたから、スペインかもしれない。とにかく場所はどこでもいいのだ。
アル中気味のマイペースな主人公ベランジェが友人ジャンと一緒にカフェで喧嘩していると、一頭の犀が街中を駆け抜けるショッキングな場面を目撃する。翌日のオフィスでも犀のニュースでもちきりだったが、目撃者ベランジェと同僚のデイジー以外、誰も犀の存在を信じようとしない。しかしオフィスにも犀が現れ、それが同僚の変身した姿であることが分かる。そして徐々に周りの人々が犀へと変身し、自分を罵っていた友人ジャンも自分の目の前で犀になってしまう。ベランジェは犀になることを拒否して想いを寄せる同僚デイジーと生きていくことを決意するが、デイジーも最後は犀の道を選んでしまい、ベランジェは一人取り残される。

これだけ聞くとなんとも不条理な物語だ。しかし実際に演劇を観てもその印象は変わらない。町中の人がどんどん皮の硬い犀になっていく。こんな馬鹿なことは実際に起きないだろうと誰もが思う。しかしこの不条理さはまさに現代世界をそのまま表しているようにみえる。この話はもともと作者ウジェーヌ・イヨネスコが祖国ルーマニアでの青年時代に目撃したファシズムの浸透をモチーフにして作った物語だった。世界大戦の最中、突如現れたナチスに人々は驚き、そしてその戦術に嵌まり感化されていく。そして多数派の意見が正しいとされ、少数派はどんどん迫害されていく。そう考えると『犀』はナチス・全体主義の恐怖を描いた戯曲だが、本当に怖いのは人間の中にある不安だ。人間は常に不安を感じる生き物であり、それが今までに多くの悲劇を生んできた。

『犀』では一貫として自分の存在に対する不安が描かれている。周りがどんどん犀に変身していく中で、自分が人間でいることが正しいのかどうかベランジェは悩む。そして次第に犀を美しいと感じるようになる。それは人間の中にある弱さだ。
以前からベランジェは人間関係の悩みや自分だけ周りと違うと思い込む疎外感から、自分の存在に対してずっと疑問を抱き続けていた(それがアルコールに溺れた原因かもしれない)。そして街中に犀が現れたとき、その不安はさらに具体的な形となってベランジェの前に提示される。
最初ベランジェはただの傍観者であり、犀を危険なものとは考えていなかった。しかしその危険に気が付いたとき、すでに周りは犀になっていた。自分だけが取り残されていく!その不安を解消する手段は自分の存在を消し、周りと同化すること。しかしそれは他者とのコミュニケーションを拒否し人間一人一人の存在を否定する危険な思想でもある。『犀』が1960年に上演されながら今蘇ったのは、おそらくその危険な思想が現代社会にも蔓延しているからなのかもしれない。今回演出を担当したパリ市立劇場芸術監督エマニュエル・ドゥルマシー=モタは前回の来日会見で次のように言っている。

人間や文化とは逆の存在になる動物への変身は、不条理な性格を持つものです。特にイヨネスコが選んだ犀は、現在の我々からは遠い存在の動物であり、人間と動物のあいだのコミュニケーションの不可能性を表しています。また犀には盲目的、怯えると危険な存在になるという特徴があります。『犀』を演出しようと思ったことは挑戦でしたが、私は直感的に「イヨネスコに戻るべきだ」と判断したのです。イヨネスコが持つ現代的な側面を明らかにすべき時が来ていると思います。
(2015/9/8 アンスティチュ・フランセ東京エスパスイマージュ ※一部省略)

『犀』の日本上演が11月13日に起きたパリ同時多発テロのあとだったため、この演劇はますます今起こっている世界の不条理さを表しているように思えた。テロの恐怖は警備を強化するだけではもはや解決しない問題になっている。人間の根本にある不安と無知がテロリストを増やし、多くの悲劇を生む温床になっている。私にはテクノロジーの進化とコミュニケーションの進化は反比例しているように思える。『犀』はそんな人間の抱える最大の問題とその対処に対して答えは出していない。しかしそれを考えるきっかけを与えてくれる意味で、非常に大切な現代の寓話ともいえる。誰もが主人公ベランジェであり、犀のいる世界にいま生きている。

パリ市立劇場『犀』"Rhinocéros"
作:ウジェーヌ・イヨネスコ
演出:エマニュエル・ドゥマルシー=モタ
by kou-mikami | 2015-11-22 12:20 | パリの演劇
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