ジャック・ドワイヨン『ラブバトル』

恋愛映画というものは数多くあるが、
ジャック・ドワイヨン監督の『ラブバトル』は
今までの恋愛映画が決して描かなかった部分のみで構成された映画といえる。
そしてだからこそ、最も自然で普遍的な愛を描くことに成功したのだろう。

e0141635_08581841.jpg
"Mes séances de lutte"より

この映画に物語はほとんどない。登場人物の背景もほとんど語られない。
父の葬儀のために女が生まれ故郷に戻ってきたところから始まる。
フランスらしい美しい自然豊かな田舎の村だ。
女が隣家の男と再会し、次第に愛し合う。この映画にあるのはこれだけだ。
しかも通常のセックスではなく、激しい争いのような体のぶつけ合い。
愛が愛と呼ばれる前の原始的で荒々しい男女のもがきだけ。
それゆえに新鮮で美しく、観る者を圧倒する。
泥の中でもがきあう2人の姿はまるで神話の世界を見ているかのようだ。

しかし、映画の中の男と女は何故こんなに激しく闘うのか。
生身の体をぶつけ合うことで2人は何かから開放されようとしているのかもしれない。
文明の発達によって人間は頭で思考するようになり、そのために肉体が置き去りにされた。
そして愛が意識化で語られるものとなり、窮屈になってしまった現代。
2人の愛情表現はそんな現代に失われてしまったものを取り戻そうとする闘いのようだ。
それは人間が本来持っていた肉体、そして古代の平穏さなのかもしれない。

監督は母を失くした4歳の少女を描いた『ポネット』(1997)で有名なジャック・ドワイヨン。モーリス・ピアラ、フィリップ・ガレルらとともにポスト・ヌーヴェルヴァーグといわれている監督。『ポネット』は主演の少女が第53回ベネチア映画祭主演女優賞をわずか5歳で最年少受賞したことでも有名で、今回の映画はその公開から16年ぶりの劇場公開作品(2013年に公開)となる。
ちょっと不思議なタイトルである『ラブバトル』(原題"Mes séances de lutte")の由来はポール・セザンヌの名画"La Lutte d'amour"から。
4組のカップルが全裸で組み合っているその絵画の複製を監督は机の上に貼っていた。そしてそこから得られるものを書かなければいけないという衝動に駆られたという。

「女」役は『L'AMOUR EST UN CRIME PARFAIT』に出演したサラ・フォレスティエ、「男」役はチャールズ・チャップリンの実孫で俳優や舞台演出家として活躍するジェームズ・ティエレ。どちらも素晴らしい体当たりの演技でジャック・ドワイヨン監督の熱意に応えている。登場人物が極端に少ないが、単純に男と女の行動に絞ることで、根源的で激しい愛をまるで絵画や演劇のように肉体として描くことに成功した。

18世紀頃からヨーロッパでは、情熱的な愛を雷に例えたが、それは古代から現代まで変わらない人間の感情だと思う。ただそのあとの過程が現代では洗練され、古代ではもっと直接的で荒々しいものだったのかもしれない。『ラブバトル』はその再現ともいうべき唯一無二の映画かもしれない。

ストーリーを描くのではなく、ひたすら男女の行動だけを描く。人間が本来もっている激しい根源的な愛を描いた映画。

『ラブバトル』"Mes séances de lutte"
2013 / フランス
監督:ジャック・ドワイヨン
主演:サラ・フォレスティエ、チャールズ・チャップリン


[PR]
# by kou-mikami | 2017-02-02 09:27 | フランス映画
フランソワ・オゾン『彼は秘密の女友だち』

親友の夫に女装趣味があることを知ってしまったら。『8人の女たち』『17歳』などで知られるフランソワ・オゾン監督の最新作『彼は秘密の女友だち』はそんなハプニングから人を惹きつける珍しい映画だが、自身がゲイであることを公表しているオゾン監督の作品であれば、とくに驚くものではない。

e0141635_17580695.jpg
画像:映画『彼は秘密の女友だち』より

物語の舞台は緑豊かなパリ郊外の高級住宅地。そこに住むクレールは病気で亡くなった親友の夫であるダヴィッドが女装趣味を持っていることを偶然知ってしまう。一人で子育てをするダヴィッドの様子を見に出かけていったとき、彼が妻の服を着て子供をあやしているところを見てしまったのだ。最初は嫌悪感から逃げ出してしまったクレールだが、妻を失ったデヴィットを慰めるために彼の家を訪問するたびに、その趣味を受け入れていく。しかしある日、デヴィッドと2人で旅行に出かけたことがクレールの夫にばれてしまう。

女装に目覚めて新しい自分を見つけていくダヴィッドの嬉しそうな顔がすごくいい。ダヴィッド役であるロマン・デュリスの演技の素晴らしさによるものだ。そこには新しい人生を思う存分に生きる、うらやましくなるほどの開放感がある。そしてダヴィッドが女性の性に目覚めるのと呼応するかのように、クレール自身も女性の性の魅力にはまりこんでいく。女装趣味という秘密を共有することで、2人の「女友だち」が性別を超えたなにかを発見していく友情ストーリーともいえる。トランスジェンダーの問題を扱ったフランス映画は多いが、そこにあるのは複雑で難しい恋愛ではなく、実はシンプルな恋愛と友情だけ。フランス映画の素晴らしさはまさにそこにある。

今までと違う自分として生きるのはとても勇気がいること。自分が何者なのか悩み、社会に受け入れられるのか不安になるはずだ。だけどその先には本当にやりたかった人生が待ってるかもしれない。女装は少々極端な例かもしれないけど、外見を変身させることで違う人生を歩むことだってできる。それはきっと開放的で素晴らしいことなのだろう。『彼は秘密の女ともだち』のダヴィッドのように。

『彼は秘密の女友だち』"Une nouvelle amie"
2014 / フランス
監督:フランソワ・オゾン
主演:ロマン・デュリス、アナイス・ドゥムースティエ
原作:ルース・レンデル『女ともだち』


[PR]
# by kou-mikami | 2017-01-30 08:51 | フランス映画
イングマール・ベルイマン『仮面/ペルソナ』
イングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』を観た。
スウェーデンの世界的巨匠による1966年の作品。

後にベルイマンの作品に出演し続けるリヴ・ウルマンが
初めてベルイマンの映画に出演した記念すべき作品でもある。
女性2人しか登場しない設定とシンプルなタイトルに惹かれて鑑賞したが
予想以上に前衛的で難解な映画だった。
そして自分にとっては忘れることのできない映画の一つとなった。

【前衛的な映像で始まる不吉なオープニング】
どこが前衛的だったかといえば、オープニングの映像部分。
映画とは一見関係ないような別のフィルムがいくつも挿入され、
そのどれもが不吉なイメージを喚起させるものばかり。
まるで実験映画を観ているような落ち着かない気分になった。
しかしそれらの映像が後で主人公たちの内面に隠された心理を
表わしていたものだということが分かってくる。

【幾通りにも解釈できる難解なストーリー】
そしてこの映画の難解さはストーリーが常識で見る限り
破綻している点にある。
といってもSFのようなありえない世界が現れるわけでも空想の生き物が
登場するわけでもない。
描かれるのは2人の女性の静かな生活。設定はミニマリズムそのもの。
そのモノクロ映像はどの場面をとってもあまりに美しい。
しかし後半から2人の人格が徐々に曖昧になっていく。
同じ会話が繰り返されたり、アルマがエリザベートとして振舞うようになったりと
途中でどちらがどちらなのか分からなくなる場面があり、
そのためにストーリーの解釈が幾通りにも分かれることになる。
一体今話をしているのはどちらなのだろう?と。
あまりに不可解な展開に、観ていたDVDを留めて巻き戻してしまったほどだ。

現実世界の日常が舞台でありながら、本来はありえない2人の人物の
混同(同化)が起こるところが、この映画を複雑なものにしている。
途中で2人の顔が合わさる合成シーンがあるが、
監督が顔の似ている女優2人を起用したというだけあり
違和感なく溶け合っていく映像が怖いほど見事である。

【主なストーリー(※ネタばれあり)】
物語は舞台女優エリザベートが失語症にかかるところから始まる。
病院で検査を受けても原因が分からず、
治療のために看護婦アルマと2人で海辺の別荘で療養生活を送ることになる。
最初は看護婦と患者という関係だったが、自然の中で生活をしていくうちに
2人は次第に親しい友人のように打ち解けていく。
アルマは黙ったままのエリザベートにいろいろな打ち明け話をするようになるが
その告白をエリザベートが手紙に書いてしまったことをきっかけに
裏切られたと思ったアルマは怒り、2人は反発しあうようになる。
最後には2人の人格が溶け合い、アルマが一人で別荘を出て行く。

【ドッペルゲンガーを描いた物語】
この映画を観終わったとき、私はどちらか1人が存在しないのだと思った。
ヨーロッパの人々が信じているドッペルゲンガー(分身)という現象を
ベルイマンなりの解釈で描いた映画なのではないだろうか。
つまり(おそらく)アルマは実はたった一人で療養生活を送っていて
その間に自分の中にあるもう一人の人格=分身(エリザベート)を見つけたのだと
思った。もしくはその逆のパターンかもしれない。
そう思えば、途中でアルマがエリザベートに成り代わるといった
不可思議な現象も分かる気がするし、
ラストでアルマだけが別荘を出て行くシーンも納得がいく。
またドッペルゲンガーの特徴として興味深いのが「周囲の人物と会話をしない」ということ。
その特徴から考えれば失語症に陥って会話をしなくなったエリザベートが
アルマの分身だったのではないかという推測も成り立つ。
これは1人の人間の中にある2つの人格を描いた映画なのかもしれない。
つまりアルマが内面に隠されていた自分自身を知る物語といえるだろう。

【もう一つの個人的解釈】
しかし数日して、私はもう一つの可能性を考えた。
どちらか1人しか存在しないのではなく
実は2人とも存在し、映画は2人の女性のそれぞれの世界をパラレルに描いているのではないか。
よく観るとラストには別荘を出た後の2人の姿がそれぞれ描かれている。
女優エリザベートが自分の中にある看護婦アルマを発見していく世界と
看護婦アルマが自分の中にある女優エリザベートを発見していく世界。
この映画は2つの世界を同じ場所で同時進行で見せている類まれな映画なのかもしれない。
そういう意味では2人の視点から描いたドッペルゲンガーの映画といえるだろう。

【もう一人の自分への告白】
ドッペルゲンガーと並ぶこの映画の重要なモチーフは「告白」である。
彼女たちはお互いに心の奥にしまいこんでいた告白をするが、
その内容はどちらも子供への罪悪感に関するものだった。
アルマは望まない妊娠による堕胎を経験し、
エリザベートは母性の欠如を指摘され、愛することのできない子供を産む。
不幸な子供の存在が2人の女性の生活に暗い影を落としており、
その心理がオープニングに登場する子供のシーンに表れている。
互いに罪を告白することにより心が開放されるが
2人とも告白を聞かされて強い衝撃を受ける。
それは2人が心の奥では一つであることを意味するのではないか。
そして告白によって互いの心の中が一つの闇で支配されていることを知った2人は
徐々に人格を同化させていったのではないだろうか。

【ベルイマンの影響を受けた映画監督】
この映画は多くの映画監督に大きな影響を与え、
自分の中にある別の人格というテーマで数多くの映画が
撮られている。

レオス・カラックスも影響を受けた監督の一人だろう。
13年ぶりに発表した新作『ホーリー・モーターズ』でも
一人の人間の様々な人格が人生の疲れを通して表現されている。
『仮面/ペルソナ』の冒頭に出てくる子供の姿と
『ホーリー・モーターズ』の冒頭に出てくるカラックス自身が
なんだか似ているように見えたのは自分だけだろうか。

『仮面 / ペルソナ』 "PERSONA"
1966 / スウェーデン
監督:イングマール・ベルイマン
出演:ビビ・アンデショーン、リヴ・ウルマン
[PR]
# by kou-mikami | 2016-02-05 19:21 | パリの映画
ミシェル・ウエルベック『服従』
ミシェル・ウエルベックの『服従』を読んだ。
イスラーム同胞党というムスリムの政権が実権を握った近未来のフランスが舞台。
主人公はソルボンヌ大学で教鞭をとる中年教授で、19世紀のデカダンス作家ユイスマンスを専門としている。
文学に精通しながら孤独な性生活を送る彼が最終的にイスラム教に改宗するまでを描いた物語である。

e0141635_8302340.jpg


フランス国内でキリスト教の人口よりイスラム教が増えるという大きな出来事を契機に価値観が根底から崩される日常が淡々と描かれ、見えない透明な影が迫ってくるようで怖い。
現代政治を背景にしながらも、描かれるのは個人の内省的な世界。文学教授ならではの作家愛や、過去と未来に関する考察、宇宙の成り立ちなど知的な会話が満載のフランスインテリの世界が繰り広げられる。

日常の中に入り込んでくるイスラム教によって、彼の世界観は徐々に変えられていく。
そしてもはやキリスト教では自分の孤独は救われないことに気づく。
ムスリムの教授たちと交わされる会話の中で、宇宙に関する考察が出てくるのが興味深い。

わたしが言いたかったのは、宇宙は確実に、インテリジェンス・デザインの徴を帯びているということで、それは巨大な知性によって考えられたプロジェクトの実現なのです。

だいたい、どこにでもある星雲の広げた腕の先にある、無名の惑星の上に住むこの虚弱な生きものが、小さな手を挙げて『神は存在しない』などと主張するなど、少しばかり馬鹿げているところがあるのではないでしょうか。(ミシェル・ウエルベック『服従』)


宇宙は神が作ったものであり、知的で合理的なデザインによるものだということ。
そこに服従することで幸福が得られるというものだ。
人間が世界の中心ではなく、宇宙というデザインのほんの一部に過ぎないということだろうか。
そう考えると、イスラム教は非常に科学的な宗教のような気がしてくる。

ミシェル・ウエルベックの『服従』は、テロリストによるシャルリー・エブド社襲撃事件の当日に出版されたことで話題になり、また「イスラム教とフランス」という内容の現代性からフランス国内で大きな議論の的となった。日本でもメディアで取り上げられたが、思ったほど過激な内容ではなかったように思える。イスラム政権となった近未来フランス社会はたしかに刺激的な舞台だが、主人公の周りにあるのは恐ろしいほど静かな世界だ。それは一人の中年男の孤独な愛の物語であり、イスラム教という新しい愛の形を受け入れる時間である。
[PR]
# by kou-mikami | 2015-12-11 08:15 | パリの小説
ウジェーヌ・イヨネスコ『犀』
ウジェーヌ・イヨネスコの演劇『犀』を観てきた。「犀(サイ)」というあまりに印象的なタイトルは一度聞けば忘れることができない。私が公演を見に行ったのも、このタイトルに込められた意味に興味をもったからだ。

e0141635_12132112.jpg


作者のウジェーヌ・イヨネスコはフランスの劇作家でルーマニア生まれ。小説家でもあり『大佐の写真』や『孤独な男』などの小説は邦訳もされている。サミュエル・ベケットと同じく不条理な前衛劇を発表していたが、最初はなかなか評価されなかったようだ。しかし彼の小説を基にした戯曲『犀』が1960年にジャン=ルイ・バローによって上演されてから知名度が上がる。その後、長い空白を経て2004年にエマニュエル・ドゥマルシー=モタ(パリ市立劇場芸術監督)によってリバイバル上演され、2011年の再演によって世界各国で上演するワールドツアーが始まった。今まで12か国で上演され、今回ようやく日本にやってきた。

物語の舞台はフランスのある街。私はパリを想像したが、劇中に乾燥地帯のカスティーリャという表現が出てきたから、スペインかもしれない。とにかく場所はどこでもいいのだ。
アル中気味のマイペースな主人公ベランジェが友人ジャンと一緒にカフェで喧嘩していると、一頭の犀が街中を駆け抜けるショッキングな場面を目撃する。翌日のオフィスでも犀のニュースでもちきりだったが、目撃者ベランジェと同僚のデイジー以外、誰も犀の存在を信じようとしない。しかしオフィスにも犀が現れ、それが同僚の変身した姿であることが分かる。そして徐々に周りの人々が犀へと変身し、自分を罵っていた友人ジャンも自分の目の前で犀になってしまう。ベランジェは犀になることを拒否して想いを寄せる同僚デイジーと生きていくことを決意するが、デイジーも最後は犀の道を選んでしまい、ベランジェは一人取り残される。

これだけ聞くとなんとも不条理な物語だ。しかし実際に演劇を観てもその印象は変わらない。町中の人がどんどん皮の硬い犀になっていく。こんな馬鹿なことは実際に起きないだろうと誰もが思う。しかしこの不条理さはまさに現代世界をそのまま表しているようにみえる。この話はもともと作者ウジェーヌ・イヨネスコが祖国ルーマニアでの青年時代に目撃したファシズムの浸透をモチーフにして作った物語だった。世界大戦の最中、突如現れたナチスに人々は驚き、そしてその戦術に嵌まり感化されていく。そして多数派の意見が正しいとされ、少数派はどんどん迫害されていく。そう考えると『犀』はナチス・全体主義の恐怖を描いた戯曲だが、本当に怖いのは人間の中にある不安だ。人間は常に不安を感じる生き物であり、それが今までに多くの悲劇を生んできた。

『犀』では一貫として自分の存在に対する不安が描かれている。周りがどんどん犀に変身していく中で、自分が人間でいることが正しいのかどうかベランジェは悩む。そして次第に犀を美しいと感じるようになる。それは人間の中にある弱さだ。
以前からベランジェは人間関係の悩みや自分だけ周りと違うと思い込む疎外感から、自分の存在に対してずっと疑問を抱き続けていた(それがアルコールに溺れた原因かもしれない)。そして街中に犀が現れたとき、その不安はさらに具体的な形となってベランジェの前に提示される。
最初ベランジェはただの傍観者であり、犀を危険なものとは考えていなかった。しかしその危険に気が付いたとき、すでに周りは犀になっていた。自分だけが取り残されていく!その不安を解消する手段は自分の存在を消し、周りと同化すること。しかしそれは他者とのコミュニケーションを拒否し人間一人一人の存在を否定する危険な思想でもある。『犀』が1960年に上演されながら今蘇ったのは、おそらくその危険な思想が現代社会にも蔓延しているからなのかもしれない。今回演出を担当したパリ市立劇場芸術監督エマニュエル・ドゥルマシー=モタは前回の来日会見で次のように言っている。

人間や文化とは逆の存在になる動物への変身は、不条理な性格を持つものです。特にイヨネスコが選んだ犀は、現在の我々からは遠い存在の動物であり、人間と動物のあいだのコミュニケーションの不可能性を表しています。また犀には盲目的、怯えると危険な存在になるという特徴があります。『犀』を演出しようと思ったことは挑戦でしたが、私は直感的に「イヨネスコに戻るべきだ」と判断したのです。イヨネスコが持つ現代的な側面を明らかにすべき時が来ていると思います。
(2015/9/8 アンスティチュ・フランセ東京エスパスイマージュ ※一部省略)

『犀』の日本上演が11月13日に起きたパリ同時多発テロのあとだったため、この演劇はますます今起こっている世界の不条理さを表しているように思えた。テロの恐怖は警備を強化するだけではもはや解決しない問題になっている。人間の根本にある不安と無知がテロリストを増やし、多くの悲劇を生む温床になっている。私にはテクノロジーの進化とコミュニケーションの進化は反比例しているように思える。『犀』はそんな人間の抱える最大の問題とその対処に対して答えは出していない。しかしそれを考えるきっかけを与えてくれる意味で、非常に大切な現代の寓話ともいえる。誰もが主人公ベランジェであり、犀のいる世界にいま生きている。

パリ市立劇場『犀』"Rhinocéros"
作:ウジェーヌ・イヨネスコ
演出:エマニュエル・ドゥマルシー=モタ
[PR]
# by kou-mikami | 2015-11-22 12:20 | パリの演劇



パリ関連の記事やフランス映画を紹介するブログです。パリの写真・観光情報は写真サイト「パリの写真」を御覧ください。
by kou-mikami
パリの写真
カテゴリ
全体
フランス映画
パリの子供
パリの映画
パリの脇役
パリの動物
パリの中の異国
パリのアート
パリの街角
パリの落書き
パリのシルエット
パリ郊外にて
パリの作家・芸術家
パリ関連・その他
パリのお店
パリの公園
パリの文化
パリの小説
パリの演劇
未分類
最新の記事
ジャック・ドワイヨン『ラブバ..
at 2017-02-02 09:27
フランソワ・オゾン『彼は秘密..
at 2017-01-30 08:51
イングマール・ベルイマン『仮..
at 2016-02-05 19:21
ミシェル・ウエルベック『服従』
at 2015-12-11 08:15
ウジェーヌ・イヨネスコ『犀』
at 2015-11-22 12:20
以前の記事
2017年 02月
2017年 01月
2016年 02月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 08月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 06月
2013年 04月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 10月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 09月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
「パリ、ただよう花」
from ここなつ映画レビュー
映画『ホーリー・モーター..
from INTRO
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧