カテゴリ:パリの映画( 20 )
イングマール・ベルイマン『仮面/ペルソナ』
イングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』を観た。
スウェーデンの世界的巨匠による1966年の作品。

後にベルイマンの作品に出演し続けるリヴ・ウルマンが
初めてベルイマンの映画に出演した記念すべき作品でもある。
女性2人しか登場しない設定とシンプルなタイトルに惹かれて鑑賞したが
予想以上に前衛的で難解な映画だった。
そして自分にとっては忘れることのできない映画の一つとなった。

【前衛的な映像で始まる不吉なオープニング】
どこが前衛的だったかといえば、オープニングの映像部分。
映画とは一見関係ないような別のフィルムがいくつも挿入され、
そのどれもが不吉なイメージを喚起させるものばかり。
まるで実験映画を観ているような落ち着かない気分になった。
しかしそれらの映像が後で主人公たちの内面に隠された心理を
表わしていたものだということが分かってくる。

【幾通りにも解釈できる難解なストーリー】
そしてこの映画の難解さはストーリーが常識で見る限り
破綻している点にある。
といってもSFのようなありえない世界が現れるわけでも空想の生き物が
登場するわけでもない。
描かれるのは2人の女性の静かな生活。設定はミニマリズムそのもの。
そのモノクロ映像はどの場面をとってもあまりに美しい。
しかし後半から2人の人格が徐々に曖昧になっていく。
同じ会話が繰り返されたり、アルマがエリザベートとして振舞うようになったりと
途中でどちらがどちらなのか分からなくなる場面があり、
そのためにストーリーの解釈が幾通りにも分かれることになる。
一体今話をしているのはどちらなのだろう?と。
あまりに不可解な展開に、観ていたDVDを留めて巻き戻してしまったほどだ。

現実世界の日常が舞台でありながら、本来はありえない2人の人物の
混同(同化)が起こるところが、この映画を複雑なものにしている。
途中で2人の顔が合わさる合成シーンがあるが、
監督が顔の似ている女優2人を起用したというだけあり
違和感なく溶け合っていく映像が怖いほど見事である。

【主なストーリー(※ネタばれあり)】
物語は舞台女優エリザベートが失語症にかかるところから始まる。
病院で検査を受けても原因が分からず、
治療のために看護婦アルマと2人で海辺の別荘で療養生活を送ることになる。
最初は看護婦と患者という関係だったが、自然の中で生活をしていくうちに
2人は次第に親しい友人のように打ち解けていく。
アルマは黙ったままのエリザベートにいろいろな打ち明け話をするようになるが
その告白をエリザベートが手紙に書いてしまったことをきっかけに
裏切られたと思ったアルマは怒り、2人は反発しあうようになる。
最後には2人の人格が溶け合い、アルマが一人で別荘を出て行く。

【ドッペルゲンガーを描いた物語】
この映画を観終わったとき、私はどちらか1人が存在しないのだと思った。
ヨーロッパの人々が信じているドッペルゲンガー(分身)という現象を
ベルイマンなりの解釈で描いた映画なのではないだろうか。
つまり(おそらく)アルマは実はたった一人で療養生活を送っていて
その間に自分の中にあるもう一人の人格=分身(エリザベート)を見つけたのだと
思った。もしくはその逆のパターンかもしれない。
そう思えば、途中でアルマがエリザベートに成り代わるといった
不可思議な現象も分かる気がするし、
ラストでアルマだけが別荘を出て行くシーンも納得がいく。
またドッペルゲンガーの特徴として興味深いのが「周囲の人物と会話をしない」ということ。
その特徴から考えれば失語症に陥って会話をしなくなったエリザベートが
アルマの分身だったのではないかという推測も成り立つ。
これは1人の人間の中にある2つの人格を描いた映画なのかもしれない。
つまりアルマが内面に隠されていた自分自身を知る物語といえるだろう。

【もう一つの個人的解釈】
しかし数日して、私はもう一つの可能性を考えた。
どちらか1人しか存在しないのではなく
実は2人とも存在し、映画は2人の女性のそれぞれの世界をパラレルに描いているのではないか。
よく観るとラストには別荘を出た後の2人の姿がそれぞれ描かれている。
女優エリザベートが自分の中にある看護婦アルマを発見していく世界と
看護婦アルマが自分の中にある女優エリザベートを発見していく世界。
この映画は2つの世界を同じ場所で同時進行で見せている類まれな映画なのかもしれない。
そういう意味では2人の視点から描いたドッペルゲンガーの映画といえるだろう。

【もう一人の自分への告白】
ドッペルゲンガーと並ぶこの映画の重要なモチーフは「告白」である。
彼女たちはお互いに心の奥にしまいこんでいた告白をするが、
その内容はどちらも子供への罪悪感に関するものだった。
アルマは望まない妊娠による堕胎を経験し、
エリザベートは母性の欠如を指摘され、愛することのできない子供を産む。
不幸な子供の存在が2人の女性の生活に暗い影を落としており、
その心理がオープニングに登場する子供のシーンに表れている。
互いに罪を告白することにより心が開放されるが
2人とも告白を聞かされて強い衝撃を受ける。
それは2人が心の奥では一つであることを意味するのではないか。
そして告白によって互いの心の中が一つの闇で支配されていることを知った2人は
徐々に人格を同化させていったのではないだろうか。

【ベルイマンの影響を受けた映画監督】
この映画は多くの映画監督に大きな影響を与え、
自分の中にある別の人格というテーマで数多くの映画が
撮られている。

レオス・カラックスも影響を受けた監督の一人だろう。
13年ぶりに発表した新作『ホーリー・モーターズ』でも
一人の人間の様々な人格が人生の疲れを通して表現されている。
『仮面/ペルソナ』の冒頭に出てくる子供の姿と
『ホーリー・モーターズ』の冒頭に出てくるカラックス自身が
なんだか似ているように見えたのは自分だけだろうか。

『仮面 / ペルソナ』 "PERSONA"
1966 / スウェーデン
監督:イングマール・ベルイマン
出演:ビビ・アンデショーン、リヴ・ウルマン
[PR]
by kou-mikami | 2016-02-05 19:21 | パリの映画
『南へ行けば』
レア・セドゥの挑発的な眼差しが特徴的なジャケットに惹かれ
前から観たいと思っていた『南へ行けば』をようやく鑑賞した。
しかし、驚いたことにこの映画はレア・セドゥが主演ではなかった。

e0141635_2053619.jpg


主人公は南へと車を走らせる無口な男サム。
そこにレアとマチューの兄妹が乗っている。
2人はヒッチハイクでサムの車に同乗させてもらったらしいが
どこまで行くのか目的は全くわからない。
ただレアは妊娠中のようで、このまま産むべきか悩んでいる。
レアの弟マチューはゲイで、運転手サムのことが好きになっている。
サムもゲイなのだが、マチューのことを全く相手にしない。
そこにレアが途中のガソリンスタンドで声をかけた青年ジェレミーも加わり、
男3人と女1人のロードムービーが進んでいく。

e0141635_20533050.jpg


アメリカンニューシネマを思わせる淡々とした描写が続くが
次第にサムの過去が回想され、この旅の目的が明らかになってくる。
サムは幼いころ父親の拳銃自殺を目の前で目撃し、
自殺の原因となった精神病を患った母親を今でも憎んでいた。
その母親から数十年ぶりに手紙を受け取り、
離れて住んでいる母親に会うために出かける途中だった。

この映画は、人生の「時」が少年時代で止まってしまった青年の
心の動きをロードムービーを通して非常に繊細に描いている。
大好きだった父親が目の前で拳銃自殺し、その時を境に
サムは外界に対して心を閉ざし、母親を憎むようになった。

車が移動し新たな風景が現れても、サムの表情に変化はない。
途中で弟の家に寄るが、弟は結婚をして新たな人生を歩んでいた。
自分だけが人生に取り残された思いを持ちながら、旅を続ける。
ロードムービーは、停車中の人生なのだと思う。
景色は移動しても、旅人の人生は動いていないのだ。
走れば走るほど、心の空疎は曇った空のように広がっていくばかり。

e0141635_2054689.jpg


そんなサムの旅を、レアたち兄妹が自由奔放に刺激し、
感情を閉じていたサムの心にも変化が現れる。
いつしか車は南フランスを抜けてスペインへと入る。
立ち寄った浜辺ではキャンプファイアや海水浴を楽しみ、
4人にもようやく束の間のバカンスが訪れる。

レアは夜の草むらでジェレミーと体を重ねるが、愛を得ることはできない。
サムがマチューの愛を受け入れる夜の浜辺の情景は刺激的でもあり
いかにもフランス映画的な官能と自由がある。
サムの表情にも初めて和らぎが生まれるシーンが印象的だ。
この映画ではゲイの恋愛がリアルに実直に描かれている。
それもフランス映画の一つの特徴である。

しかしサムは結局レアたちに別れを告げぬまま浜辺をあとにし、
その後一人で旅を続けてようやく母親と対峙する。
手には父親が自殺したときに使った拳銃を持って。
しかしそれを使うことはなく、仕事へ行く母親と別れ、
サムは一人でどこかの川へと入っていく。
川の水を浴び、何度も何度も潜るサム。
それは彼がかつて体験した母親の羊水の味だったのだろうか。
母親を憎みしながらも愛情を捨てきれないサムの
複雑な心境を見事に表したラストシーンだった。

『南へ行けば』"Plein Sud"
2009年 / フランス
監督:セバスチャン・リフシッツ
出演:ヤニック・レニエ、レア・セドゥ
[PR]
by kou-mikami | 2015-08-13 20:46 | パリの映画
『美女と野獣』
映画『美女と野獣』を観てきた。
ディズニーアニメでも有名なフランスの童話『美女と野獣』の実写作品。
監督はフランス出身のクリストフ・ガンズ監督。
主演も今人気のフランス人女優レア・セドゥ。

e0141635_9524.jpg


フランスでは1946年にジャン・コクトーによって映画化されているが
実に68年ぶりの本家フランスによる実写化ということで、期待も高い。
映像に関しては最高の出来といってよく、
現実と幻想が見事に調和した世界観が美しい。
物語は野獣の過去にも焦点を当て、過去の映画にはない独自の物語を描いたものの
肝心の美女と野獣の恋愛においては少し物足りなさを感じた。

e0141635_953213.jpg


もともとはフランス生まれの民話
ディズニーアニメで世界的に有名な『美女と野獣』だが、
もともとは1740年フランスで出版された童話(民話)がオリジナル。
作者はヴィルヌーヴ夫人で、その後ボーモン夫人による短縮版が出版された。
裕福な商人の家に生まれた末娘ベルは、美しく誠実な女性。
ある日バラを盗んだ父の身代わりとして野獣のいる城に行き、
野獣との奇妙な生活を続けるうちに、野獣に愛情を抱く。
人間が異なる世界の種族と結婚するという異種婚姻譚であるが、
最終的に野獣は元の王子の姿に戻り、ベルとの幸せな結末を迎える。
いわば典型的なおとぎばなしの骨格を持った物語と言える。

e0141635_955755.jpg


原作との違いは「野獣の過去」
今回の映画は、ヴィルヌーヴ夫人による原作を元にして
忠実に作られているそうだが、原作とは異なる部分がある。
それは「王子が野獣に変身させられた理由」を描いたところ。
どうして王子は野獣に姿を変えられたのかはかなり大事なところだが
何故か原作にもディズニーアニメにも描かれていない。
子供向けのおとぎ話なので、細かい部分は不必要だったのかもしれない。
しかし映画『美女と野獣』では、そんな王子の過去に焦点を当てている。
野獣の悲しい過去をベルが知ることにより、その野獣への愛情が芽生えるので
過去の描写はとても重要な要素であり、この映画が他の作品に比べて評価できる点。

ちなみに監督はジャン・コクトーの『美女と野獣』を敬愛しており
しかしながら今回はそのリメイクではなくオリジナルの物語にこだわった。
だが、愛情が芽生えたベルと野獣の恋愛が細かく描かれないまま
クライマックスへと流れてしまっている早急な印象を受けた。
その辺りをもう少し丁寧に描ければベルが野獣を愛した明確な理由を
視聴者に説得力を持って伝えることができたような気もする。

e0141635_97355.jpg


野獣と出会うきっかけとなったベルの父
この映画のもう一つの特徴としては、ベルと家族の関係を丁寧に描いている点。
前半は主人公ベルとその家族の物語が続き、野獣との出会いまでのいきさつを
じっくりと描いている。
おとぎばなしとはいえ、主人公が幻想世界に入るきっかけにリアリティをもたせるのは
大事だと実感した。その辺りの構成はとてもフランス的な感じがする。
家族の中で重要な役割を果たすのは裕福な商人であるベルの父だ。
映画の前半はベルではなく父の視点で物語が進行していく。
いかにも裕福な商人という感じで、娘への深い愛情を感じさせる役柄。
彼が森で遭難し初めて野獣の城を訪れる場面は見事。
幻想的でありコミカルで、魔法のように現れたごちそうを頬張る姿が
人間世界と幻想世界を見事につないでいて素晴らしい。

e0141635_98451.jpg


ベルの現代性
『美女と野獣』が18世紀の原作を元にしながら現代的なのは、
ベルが自分の意思で運命を切り開く強い女性として描かれているからかもしれない。
前半は父の身代わりとして野獣の城へ向かい、後半は野獣に会うために再び城へ向かう。
野獣を見て驚きはするも、好奇心が強く、野獣の城や庭を散歩する。
新しい世界への興味を持ってその場を切り抜けていく大胆さがうかがえる。

e0141635_984471.jpg


シンデレラとの共通点
映画『美女と野獣』に出てくる3人姉妹は『シンデレラ』を思い出す。
わがままで強欲な2人の姉と純粋で無欲な末娘。さらに浪費家で遊び人の兄が加わる。
愚かな姉と兄の存在は、主人公ベルの誠実さや美しさを引き立たせ、
現実世界の不公平や理不尽を暗示しているように思える。

もう一人の主役、森の精
この映画の主人公はベルと野獣だが、
もうひとつ重要になってくるのは「森の精の存在」だ。
森の精は人間の驕りに対する自然の脅威として描かれ
野獣の過去や物語のクライマックスで重要な役割を果たしている。
森が開いて道ができたり、蔦が絡まり欲深い人間を殺したり。
巨大な石像が動き出す場面は、他の映画でも見たような気もするが、
自然界の神的な存在として描かれる森の精の迫力は
宮崎駿監督の作品にも通じるものがあるだろう。
少し違和感があったのは、森の精によって呪われた王子の飼い犬たち。
空想の生き物を描くことが好きなクリストフ・ガンズ監督ならではだが
妙にディズニー的なテイストの生き物で、今回の映画の世界観には
合わない気がした。

e0141635_99910.jpg


個人的な希望を1つ言えるなら
呪われた城で一人でいたときの野獣の孤独を
描いてほしかった。そのような圧倒的な孤独より
野獣の悲劇性が高まり、視聴者の共感もさらに得られるのではないか。

300年前から語り継がれているおとぎばなしへの魅力は尽きないが
それを映像化することでより一層その物語への理解や疑問が出てくる。
今後も『美女と野獣』は様々な形で語られていくのだろう。

La Belle et la Bete(2014)
監督:クリストフ・ガンズ
主演:レア・セドゥ、ヴァンサン・カッセル
[PR]
by kou-mikami | 2014-11-14 09:24 | パリの映画
フィリップ・ガレル『ジェラシー』
フィリップ・ガレルの新作『ジェラシー』を観てきた。
アンスティテュ・フランセ(日仏学院)での先行上映会で
会場には多くのガレルファンと思われる人たちが来ていた。

e0141635_13451962.jpg



【ストーリー】
物語はある家族を描いた非常に個人的なものだった。
離婚して新しい恋人クローディアとの新生活を始める男ルイが主人公。
貧しいながらも彼女を愛し役者の仕事を続けるルイは、典型的な芸術肌のパリジャンだ。
しかし徐々にクローディアは理由のない嫉妬によって精神を病んでいき、
裕福な建築家の元に去っていく。
恋人に去られて生きる希望をなくしたルイは自殺を図るが死ぬことはできなかった。
退院後、元妻との間にできた娘と会話することにより、
ルイは人生にかすかな希望を見出していく。

『ジェラシー』は離婚と再婚を繰り返す男女の空しい生活が細かく描かれていて、
現代フランスの恋愛としては、なかなかリアリティがある。
この映画のもう一人の主役は主人公の娘シャルロットで、大人びた感じがまた可愛い。
家を出ていった父と外で会って話したりするシーンはフランスの典型的な家族風景で、
そこにある種の希望が見えるが、物語はどこにも行きつかずに不意に終わる。
終わってみると物語というよりは断片的な人生の一部分を観たような感じだ。

e0141635_13455889.jpg



【主観的で個人的な愛に関する物語】
監督フィリップ・ガレルは自身を「ヌーヴェル・ヴァーグの弟子」と言っており、
その作風はやはりヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの意思を継承しているように思える。
その特徴としては「個人的で主観的」であることが挙げられるだろう。
大きな物語やクライマックスがあるわけではなく、世界は個人の家族に限定される。
そこには社会悪もヒーローも、解き明かすべき謎も、暴くべき陰謀も出てこない。
そして自分の愛する人をカメラの中に収めたいという個人的な欲求。
女優の顔のクローズアップを多用した主観的な視線。
これらはフランス映画の本質をついており、やはり『ジェラシー』は
ヌーヴェル・ヴァーグの流れを継承した作品と言えるだろう。

フィリップ・ガレルは今までにヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌姫ニコや
女優ジーン・セバーグなど、彼が愛した女性たちをスクリーンの中に登場させている。
それは物語構成のために必要な役者としてではなく、
ただ彼女たちをスクリーンに映したいがためである。
そこには客観的な映画制作はなく、あくまで主観的なスタンスから映画を生み出している。
それはまたハリウッドと相反するフランス映画の特徴の一つとも言えるし、
今でもそのような映画はフランスでは評価の対象となっている。
そこがガレルの映画が美しく芸術的である理由だと思う。

フィリップ・ガレルは映画という第9の芸術についてこう言っている。
「芸術とは主観的なものであり、客観的な芸術などありえない」


【『ジェラシー』というタイトルについて】
『ジェラシー』はタイトル通り、嫉妬という感情をテーマにした映画だ。
しかし嫉妬の感情に苦しめられるのは主人公ではなく、
主人公に離婚を切り出された元妻であり、主人公の新恋人であるクローディアだ。
フランス語のLa Jalousieが女性名詞であるのは偶然だと思うが、
やはりある意味で『ジェラシー』は女性の視点から見た映画かもしれない。

また監督はジェラシーという感情についてこう言っている。
「『嫉妬』というのは『不和』よりひどい状態だ。
だが同時に、『嫉妬』とは誰もがかつて感じたことのある何かであり、
誰もが罪悪感を感じるもので、さらにはその正体を解明したいと思わせる側面もある」

e0141635_13514021.jpg



【存在感の希薄なルイ・ガレル】
女性たちの嫉妬が強く画面に出た映画『ジェラシー』だが
その一方で肝心の主人公であるルイの存在がとても希薄な気がした。
あまり感情が表にでない人物なのかもしれないが、
女性と恋をして演劇に熱中するも、主人公として何かが足りない。
彼の苦悩というのものがリアリティをもって感じることがあまりできなかった。
彼がピストルで自殺を図ろうとする場面も、どこか演劇的で現実味がない。
自分を傷つけて相手の気を引こうとするのはパリジャンの特徴なのだろうか。
またそこには男が行うある種のロマンチシズムが感じられ、
女性の現実的な面との差異がより浮き彫りになる気がした。

e0141635_13491226.jpg



【美しいモノクロ映像】
ガレルの映画が美しいのは、被写体への強い愛情だけでなく、
彼の撮影技術が伝統に則ったものだからかもしれない。
『ジェラシー』には物語の流れよりも、美しい映像を撮りたいという監督の偏った熱意が感じられる。
しかしそのような偏狭的な想いがあるからこそ、彼の映画は美しく芸術的でもある。
また技術に関しては今回の映画は35ミリのモノクロで撮影されている。
フィリップ・ガレルは映画発明当時の無声映画が大好きで、
現在の商業的なスペクタクルにはあまり関心がないという。

フィリップ・ガレルは映画の伝統を守る意義についてこう語っている。
「私はリュミエール兄弟の時代の映画の伝統にこだわっています。
逆説的に聞こえますが、芸術的な意味では初期の伝統に執着することによって、
かえって革命的になれると思うのです」

また彼は古いカメラで映画撮影を続けることをについてこうも言っている。
「古いカメラで撮る、35ミリフィルムを使うことや編集機材を使うこと、
こうした手法をあきらめてはいけないということです。
そうでないとこういった手法は、今に商業映画に、つまり産業としての映画に潰されてしまいます。ですから絶対にあきらめてはいけないのです」


【『ジェラシー』に見るフランスの家族】
この映画を観てわかるのは、
離婚後も子供と良好な関係を保つフランス人家族の強いつながりだ。
男と女は別れたとしても、2人の子供との関係にヒビをいれることはしない。
子供にとってはいつまでも父と母であり、親権がどちらに渡ったとしても
両親は子供に定期的に会って話しその愛を確認する。
日本ではなかなか見られない光景だがフランスではそれが自然な社会の形だ。
これはフランス人が人生を愛すべき舞台として保つための秘訣のような気もする。

e0141635_13463124.jpg


『ジェラシー』ではそんな典型的なフランスの親子関係が描かれていた。
この物語はガレルの父モーリス・ガレルをモデルにした物語になっているという。
またその主人公を実の息子ルイ・ガレルが演じており、
ルイの実の妹エステル・ガレルも妹役として映画に出演している。
脚本には現在の妻であるキャロリーヌ・ドリュアス=ガレルが参加しているというから
一家総出で映画に情熱をかけているという奇跡のような家族映画だ。
しかし、このような家族ぐるみで純粋な映画制作ができるのも、
日本と違うフランスならではの文化的土壌がなせるものだと思う。
ガレルにとって、映画は家族であり、家族は映画であるのかもしれない。

"La Jalousie" 『ジェラシー』 (2013/フランス)
監督:フィリップ・ガレル
撮影:ウィリー・クラン
出演:ルイ・ガレル、アナ・ムグラリス
[PR]
by kou-mikami | 2014-09-18 10:03 | パリの映画
『アデル、ブルーは熱い色』
『アデル、ブルーは熱い色』をようやく観た。
映画史上初めて監督と主演女優2人にパルムドール賞(最高賞)が受賞されたことで
話題になっていた作品だが、
個人的には青い髪のレア・セドゥが出演することで一年ほど前から気になっていた。
青い髪という設定は原作のフランス漫画(バンドデシネ)から来ていて
そのビジュアルインパクトがなんだか日本の漫画のキャラクターに重なる気がした。

e0141635_1252556.jpg


まず上映時間が3時間と聞いてその長さに驚いた。
映画を観て、たしかに長かったが、それは悪い意味ではなく、
まるでアデルという女性の人生に何年間も入り込んだような濃密な3時間だった。

【ストーリー】
恋に不器用な高校生アデルは、道ですれ違った青い髪の女性エマに一瞬で恋に落ちる。
同性愛者が集まるバーで偶然エマと再会したアデルは、彼女との距離を徐々に縮め、
美学生エマの不思議で哲学的で奔放な世界観に魅了されていく。
そして、自分の中にある性に気づき、肉体を重ねることの歓びを知る。
数年後に幼稚園の教師になったアデルは、エマと同棲しながら彼女の絵のモデルをつとめて幸せな日々を送るが、二人の距離は徐々に離れていく。

【女性同士の激しい恋愛を描いた映画】
映画は2人の女性の恋愛を描いた単純なものだった。
ストーリーに関しては他の恋愛映画と大差はないだろう。
アデルとエマが出会って、恋に落ちて、別れていく。
運命の出会い、それが女性同士だっただけだ。
しかし他の映画と決定的に違うのは、その圧倒的な激しさと表情のリアリティだ。
お決まりの恋愛映画やコメディ映画のワンパターン的な演技は微塵もなく
そこにあるのは本物の人間が放つ生々しく観ていて痛くなるほどの欲望だ。
スクリーンを通してアデルとエマの「生きるための歓び」がこんなにも直に伝わってくるのは
数分間の長いセックス描写のためだろう。

【生々しくも美しいセックスシーン】
この映画の見どころの一つは2人が愛し合うシーンだ。
アデルとエマの女性同士のセックスシーンはリアルで激しく長く、
触れ合う二人の肌の色の違いが際立って生々しい。
しかしこれがポルノではなく映画として成立しているのは
2人がお互いを本気で求め合っているからだ。
まるで自分自身の欠けた破片を補い合うように重なり合って眠る2人の姿は美しい。
幼い顔立ちのアデルが相手に求める視線の強さは、動物的な本能を感じさせて、恋が自然なものであることを改めて教えてくれる。
対照的な2人を引き合わせる磁場というものがどこにあるのかは分からないが、
その2人が惹かれあい一緒になるところに、この映画の美しさがある。

【愛を知る歓びの先にあるもの】
しかしこの映画は愛を知った主人公の「生きる歓び」を感じると当時に、
後半で「失う悲しみ」が表現されているところにこそ魅力がある。
「愛を知る歓び」は「愛を失う悲しみ」によってこそ、より強調される。
それは誰もが経験する普遍的な出来事であり、それこそが人生そのものだ。
唐突に訪れるラストシーンに、人生をやり直そうとする主人公の強い意志を感じられた。

【主演のエマについて】
エマを演じたレア・セドゥの演技力のすごさには今回改めて驚かされた。
特にアデルをアパルトマンから追い出すときの剣幕はかなり恐ろしい。本気すぎる。
『美しい人』のときの黒髪の主人公の役が個人的には一番好きだが、今回のブルーヘアーのレア・セドゥもインパクトが大きい。彼女はアデルが一目ぼれする運命の女エマを見事に演じている。
2013年2月号のフィガロジャポンのインタビューで彼女はこう語っている。
「私が思うに、ファム・ファタルというのは強靭さを持っている女性のこと。
突き詰めれば、男性に全く依存していない、すべてのことからフリーな存在という気がする」

【主演のアデルについて】
アデル役のアデル・エグザルコプロスは初めて観たが、すごい女優だった。
パリ出身で、9歳の時から演技の勉強を始めている。
ジェーン・バーキンが監督した映画『Boxes』や『黄色い星の子供たち』に出演し、
『Les Enfants de Timpelbach』では主演を務め、フランスで有名となる。
そして今回の映画『アデル、ブルーは熱い色』に出演し、パルムドールを受賞した。
人間の歓びと悲しみを豊かな表情で生き生きと表現していて、視線の強さが印象的。
恋を知らない高校生の幼さから、全てを失い再出発する女性の強さまでを完璧に演じていた。ビーバーのような動物的可愛らしさも魅力だ。
また一番印象的だったのは、自宅でアデルが口を汚しながら思いきりボロネーゼパスタを食べているシーンだったかもしれない。セックスも食欲も同じ人間の本能。それを貪欲に描ききった監督の強い意志を感じた。

『アデル、ブルーは熱い色』は簡単に言えば女性同士の激しい恋の物語。
しかしそれはレズビアンという枠を出て、肉体を欲する人間の生そのものだ。
偶然出会い、相手に触れて、また別れていく。
そのあまりの激しさはやはりフランス映画だ。
忘れていた熱い想いを思い出させてくれる強烈な作品だった。

『アデル、ブルーは熱い色』(2013)
監督・脚本:アブデラティフ・ケシシュ
原作:ジュリー・マロ『ブルーは熱い色』
出演:アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥ
[PR]
by kou-mikami | 2014-05-10 12:54 | パリの映画
ギヨーム・ブラック『女っ気なし』
映画『遭難者』と『女っ気なし』を観てきた。

フランスの映画監督ギヨーム・ブラック(Guillaume Brac)の劇場初公開作品。
「新しいヌーヴェル・ヴァーグ」を予感させるバカンス映画で、
久しぶりにすごい監督が出てきたと嬉しくなった。

ジャック・ロジエ監督の『オルエットの方へ』を観たときの衝撃を思い出す。
しかしこちらの映画は華やかなOLたちではなく、地味な青年が主人公。
バカンス映画だけど、映画全体に漂ううらぶれてさえない感じが、とてもいい。
孤独でせつないエリック・ロメール映画といった風情を感じさせる。

e0141635_1261232.jpg


【ストーリー】

さびれたリゾート街オルトでホテルの管理人をしているシルヴァンは
バカンスでパリから遊びに来た母娘をホテルに迎える。
天真爛漫でグラマラスな母親と読書好きの美しい娘。
恋人のいないシルヴァンは、なんとか母親の気を惹こうとするが
あと一歩のところでうまくいかない。
日々は過ぎ、そしてバカンスにも終わりがやってくる。

『女っ気なし』はダメ男好きにはたまらない映画だろう。
アメリカ映画ではポール・ジアマッティ主演の『サイドウェイ』を思い出すが、
このフランス映画はさらにリアリティを持って観客の前に提示される。
そして、それは自分自身の心の中にあるダメさの反映となって共鳴する。
またこの映画には美しい映像が全く出てこない。それなのに切なく美しい。
これはまさにヌーヴェル・ヴァーグを継承する監督の才能だろう。

【俳優ヴァンサン・マケーニュ】

今回の収穫は映画だけでなく、その主演俳優だった。
両方の映画に出演していたヴァンサン・マケーニュ(Vincent Macaigne)の
シャイなダメ男ぶりが文句無しに素晴らしい。
一目見て好きになった俳優だ。
もともとは舞台演出や監督の仕事がメインのようだが、
今回友人であるギヨーム・ブラックに頼まれて出演したということだった。

フランス人らしからぬシャイでさえないダメ男を演じたヴァンサン・マケーニュは愛らしく憎めない。
本当に素晴らしい俳優はスクリーンの中で主張せず、
どこにでもいそうな人間としてまるで空気のように溶け込んでいる。
そしてその場にカメラがあることを全く忘れさせてくれる。
ヴァンサン・マケーニュはまさにそんな俳優だ。
彼のような俳優は、ロメール映画にあるようなバカンスで起こる何気ない展開にとても合っている。
そして青年特有の暗い世界を予感させるのも、この映画の魅力の一つとなっている。

【『女っ気なし』のプロローグとなった『遭難者』】

もう一つの映画『遭難者』は『女っ気なし』のプロローグとなる短編だった。
とくに物語が続いているわけではないが、
舞台が同じうらぶれたリゾートの町で、出てくる青年シルヴァンも一緒だ。
パリからこの町に自転車でやってきたサイクリストに一晩の宿を
貸すシルヴァンだが、彼の恋を助けようと余計なおせっかいをしたばっかりに
男の怒りを買ってしまう。
軽やかでユーモアがあって、そして悲しい余韻を残すこの作品は
次に続くバカンス映画の裏話といった役割にもなっている。

【ヌーヴェルヴァーグの精神を引き継ぐ新たなバカンス映画】

『女っ気なし』は『夏物語』と『オルエットの方へ』に次ぐ素晴らしいバカンス映画。
ラストに訪れるバカンスの終わりの開放された雰囲気もいい。
リアリティあふれる色彩とカメラワークはジャック・ロジエ監督の映画に通じるけど、
なにもかもさえない感じがこの映画の特徴でもある。
天気の悪いうらぶれたリゾート街を舞台に、
独り身の青年のなかなか実らない恋をユーモアを交えて描く。
ギヨーム・ブラックの『女っ気なし』はまさに、
あのヌーヴェル・ヴァーグの精神が今も続いていることを教えてくれた。
今年最も印象に残る映画になる気がした。


『女っ気なし』 Un monde sans femmes (2011)
監督:ギヨーム・ブラック
出演:ヴァンサン・マケーニュ、ロール・カラミー、コンスタンス・ルソー

『遭難者』Le Naufrage (2009)
監督:ギヨーム・ブラック
出演:ジュリアン・リュカ、ヴァンサン・マケーニュ、アデライード・ルルー
[PR]
by kou-mikami | 2014-04-04 12:11 | パリの映画
フランソワ・オゾン監督の最新作『17歳』
フランソワ・オゾン監督の最新作『17歳』を観てきました。

パリに住む17歳の美しい女子学生が娼婦になって売春する映画。
これだけだと少女の非行を扱った典型的なドラマを思い浮かべてしまうが、
日本のドラマのように転落の理由を大げさに分かりやすく演出するのではなく
ただひたすら彼女の日常生活が描かれている。
そこには家族があり友人があり、そしてその延長にホテルでの密会がある。
エレガントで気品漂う映像は、モデル出身で映画初主演のマリーヌ・ヴァクトの
美しい姿とそれを冷静に見つめる静かなカメラワークによるもの。
フランスでも未成年による売春の問題はかなり多いらしい。
しかしこの映画はドキュメンタリーでも売春についての映画でもない。
売春を通して彼女が求めていた何かを見つける映画となっている。

e0141635_11285777.jpg


【ストーリー(一部ネタバレがあります)】
夏、美貌の女子学生イザベル(マリーヌ・ヴァクト)は家族と一緒に過ごしていたバカンス先でドイツ人の男性フェリックスと初体験を終える。
しかしその翌日には恋は冷めてしまい、
バカンスが終わるころにはフェリックスに挨拶もせずにパリへ帰る。
秋、彼女は地元パリで名門高校に通いながら娼婦として金を稼ぐようになっている。
SNSを通じて客とやりとりし、家族には内緒でホテルに通い続ける日々が続く。
しかしある日、常連客であった初老の男ジョルジュがホテルのベッドの上で急死してしまう。動転したイザベルはその場から逃げてしまい、罪悪感を背負いながら以前の日常に戻っていく。
しかしその後、警察の捜査によって彼女が娼婦をしていたことが家族にばれてしまう。
そして冬がやってくる。

【主演女優マリーヌ・ヴァクトについて】
フランソワ・オゾンが見出したモデル出身の新人女優です。
その突出した美しさは観る人をスクリーンにくぎ付けにしますが、
彼女の魅力は、場面が変わるたびに印象を変える多面的な顔立ち。
シーンごとに変化する女性の役割をうまく表現している。
バカンスでのそばかすの残る少女の顔から、仲のいい弟と話すときの姉の顔、
どこにでもいるパリの女子学生の顔、そしてパリでの冷たく妖艶な娼婦の顔。
それは常に複数の顔を持つ女性という生き物の性質をよくとらえている。

【パリに住むリアルな家族を描き出す】
彼女をとりまく家族もいい役者がそろっている。
特に主人公イザベルの弟がとても自然で素晴らしい。
映画の冒頭も弟が姉を眺める視線から始まる。
姉と非常に仲が良く、なんでも話せる仲で、
姉の初体験についてしつこく聞き、姉を怒らせるほど。
弟の前ではイザベルも素の自分を出して、自然な笑顔を見せている。
その会話はとても自然で、映画とは思えないほどだ。
娼婦の顔と姉の顔のギャップを際立たせる意味でも、
この弟の存在はとても重要であり、イザベルの家族が
圧倒的なリアリティをもって浮かび上がってくる。
イザベルを心配する母や、すこしのんびりして穏やかな義父もまた
いい味を出している。
だからこそ観客は何故イザベルが娼婦の仕事をしているのか分からず、
彼女の無表情な姿に理解のできない恐ろしさを感じる。
『17歳』は家庭崩壊のようなドラマ的で画一的なストーリーではなく
ごく普通の幸せな家族を丁寧に描くことによって、
彼女の抱える問題を非常に繊細に表現している。

【イザベルという女性の恐ろしさ】
そんな家族の中で、イザベルだけが他の生き物のように見える。
初めて恋人のできた女性としての可愛らしい笑顔、家で弟に見せる姉としての素の笑顔
しかしその奥に横たわっているのは底の見えない無表情だ。
パーティーでキスをした同級生と付き合うようになり、
一見映画はハッピーエンドに進んでいくかのように錯覚する。
しかし、家に招いた同級生のボーイフレンドに対し、「セフィニ(もう終わり)」と告げる。その理由はよく分からない。
しかし彼女の表情の冷たさは人生には愛も喜びもないと言っているように見える。
家族には秘密にしている娼婦の顔こそが、彼女の本性にも見えるけど、それさえも本物ではない。彼女の行く先がまったく見えないまま、映画はラストに向かっていく。
美しい映像の中に女性の恐ろしさを描いたこの作品は
以前に見たオドレイ・トトゥ主演の『テレーズ・デスケルウ』にも似ている気がした。

【思春期の本当の姿を炙りだす】
彼女が恐ろしいと書いたが、それはもしかしたら思春期特有のものかもしれない。
映画に出てくるのは全て思春期によくある一場面。
初めての恋、学生生活、家族との確執。
それはあとから思い出すと美しく懐かしい時期なのかもしれないし、
実際に思春期を扱った映画には感傷的で美しいものが多い。
映画『17歳』の中で高校生が授業で朗読するランボーの詩のように、
それは美しい果実や心地よい風のように見える。
しかし実際には不安定で傷つきやすく、子供にとって最もハードな時期。
性を知ることで、今までにない自分を見つけ、どれが本当の自分か分からなくなる。
イザベルが浜辺でセックスをしているとき、もう一人の自分が暗い浜に立って
じっと自分の行為を観ているという場面がある。性を見つけることによって
もう一人の自分が現れてくる思春期の瞬間をオゾン監督は見事に映像化した。
そして不意に現れたもう一人の自分を探すためにする冒険が、『17歳』なのだろう。
しかし不幸なことに、彼女が向かったのは娼婦として人と交わることだった。

【売春によって得た束の間の自由】
売春のやり取りの場面は非常にリアルだ。
「水曜日に○○ホテルで300ユーロ」というような内容をメールでやり取りし、
年上の男性とホテルでの密会を重ねていく。
それぞれの客の嗜好も違うし、その映像から欲望の細かさや慌ただしさを見てとれる。
ここまで細かく描いたのは、イザベルの成長の一部に売春が重要な役割をしているから。彼女は普通の恋愛よりも売春に静かな生きがいをもつようになっている。
そこには金銭のやりとりという安心感があり、確かな実感があるためだろう。
自分だけの秘密を持つことにより、自由になれたという錯覚もあるかもしれない。
その中でジョルジュという初老の客に出会い、彼にだけは心を開くようになる。
その後ベッドでの彼の死がイザベルの人生に大きな影響を与え、
彼の妻(シャーロット・ランプリング)が彼女へ重要な人生の道を指し示すことになる。
あたかもイザベルの守護神のように。

映画に出てくる彼女の恐ろしさは、もう一人の自分を探そうとしても
見つからない彼女のもがきでもある。
娼婦をしたいわけでもなく、ただもがく行為の結果として売春があったのかもしれない。

この映画は、一言で言えば美しかった。
美しいもので出会ったとき、
その秘密をもっと探りたいと思う。
しかし彼女の先には何も見えない。
彼女の瞳が見ているのは追っても追いつけないもう一人の自分なのかもしれない。

『17歳』("Jeune&Jolie" 2013/フランス)
監督:フランソワ・オゾン
出演:マリーヌ・ヴァクト、ジェラルディン・ペラス、フレデリック・ピエロ、ヨハン・レイゼン、シャーロット・ランプリング
[PR]
by kou-mikami | 2014-02-23 11:34 | パリの映画
ロウ・イエ『パリ、ただよう花』
ロウ・イエ監督の新作『パリ、ただよう花』を観ました。
この映画を観ようと思ったきっかけは、まずパリが舞台だということ。
そしてパリに住む中国女性が主人公だということでした。
パリでありながらフランスではない世界を見せてくれるのがパリに住む外国人の暮らし。
それはフランス人が知らない「もう一つのフランス」です。
以前パリに暮らしていたこともあり、観光大国フランスの影の部分に興味があったため
懐かしさからこの映画を観たいと思いました。

e0141635_10301090.jpg


映画は異邦人の日常生活というよりは恋愛のみを主軸に進んでいきます。
カメラは主人公の不安定な恋愛をただ執拗に映していく。
恋人に捨てられる場面から始まり、次の恋愛が始まり終わるまでを
カメラはまるで空気のように至近距離から追っていきます。
失恋の悲しみと異邦人であることの疎外感が
辛辣な彼女の顔のアップと殺伐としたパリの風景で上手く表現されています。

【ストーリー】
中国人留学生であるホア(花)は、パリでフランス人の恋人に捨てられる。
失意の中、通りを歩いている時に建設工の男マチューと偶然出会う。
粗野でせっかちな性格のマチューに半ば無理やりに関係を迫られ、
ホアはマチューと付き合うようになる。
しかしインテリを憎む肉体労働者のマチューとは喧嘩ばかり。
うまくはいかず、結局ホアは北京に戻ってかつての同棲相手と婚約し、
通訳の仕事も得て、国際的な活躍の場を与えられる。
しかしその後彼女が向かったのは、パリ郊外の貧しいマチューの故郷だった。

【都会の愛と孤独を描き続けてきたロウ・イエ】
監督は『天安門、恋人たち』(2006)のロウ・イエ。
カンヌ映画祭で上映され過激な性描写で話題になりましたが、
彼は中国当局から5年間映画制作禁止処分を受けます。
その後、同性愛を描いた『スプリング・フィーバー』(2010)をゲリラ撮影で制作しています。
中国・上海出身の監督は今まで一貫として描き続けてきた「都会の愛と孤独」を表現してきました。

そして撮影場所を初めて海外に移し、パリを舞台にした最新作が『パリ、ただよう花』です。
原題は『Love and Bruises』ですが、この邦題で正解です。
花は、主人公の名前でもあり、ただパリを漂っています。
パリは彼女にとって流れるための場所。故郷北京と反対にある世界です。

【理由の分からない恋愛】
知性的なホアが好きになるマチューは典型的な肉体労働者。
『預言者』、『Grand central』のタハール・ラヒムが演じています。
インテリ層にいるホアと建設工マチューとの対比が面白いです。
マチューは根は優しいけど、粗野で軽率な面があり、
賭けとして友人に彼女を売ったり、アフリカ人の妻がいることを隠しています。
またホアの友人である知識階級の中国人たちを憎み罵倒します。
普通であれば、こんな男とはすぐに別れるはずですが、
それでもホアは、マチューとの逢瀬を重ねてしまいます。
その理由が私にはよく分かりませんでしたが、
おそらくそこには心とは別に、ただ肉体を求めるしかない
ホアの悲しい欲望があったのかもしれません。

【パリの野生動物】
『パリ、ただよう花』には、本来セックスとはそういうものではないかと思わせる動物的強さがありました。
もともとセックスは食べることや寝ることと同じ人間にある欲求(本能)の一つ。
それも生きることに直結する大事な欲望です。
これがあったからこそ、人類はここまで地球上で生き延びてこられました。
他の生物にもそれは当てはまりますね。
しかし現代の都会の中でその欲望は抑制されています。
でもホアはその抑制された都市に不満をいだいて漂いながらセックスを求めている。
その姿はまるでパリを徘徊する野生動物のようでもあります。
これは本来の生物に帰ろうとする人間の物語とも言えます。

【映像について】
まるでドキュメンタリーのような映像は荒々しく生々しい。
特にホアとマチューが最初に出会った日の二人のやりとりはリアル。
夜に建設現場で無理やりホアをレイプしてしまうシーンの長回しは
その場に居合わせたかのような気まずい臨場感がありました。
ホアの顔のアップが多かったのも印象的で、監督は言葉ではなく
彼女の表情に全てを語らせたかったのかもしれません。

【彼女は人生に何を求めているのか】
彼女は寒々しいパリの中でただセックスを求めているように思えます。
相手を愛しているのでもなく、寂しいのでもなく、ただ性交を重ねる。
しかしそれはどこにも辿り着かない浮遊した空しい生活です。
恋愛に疲れた彼女はようやく北京に戻ってかつての同棲相手と婚約をしますが、
将来を決めた彼女の顔には絶望しかありません。
その表情は自由を求める野生動物としてのホアの本音を浮き彫りにします。
結婚には安定と平和があるが、そこに恋愛や刺激はない。
彼女の絶望は、彼女が安定よりも刺激を大事にしていることを物語っています。
簡単に言ってしまえば、おそらく彼女は自由を求めているのでしょう。
しかしそれはいつも悲しみに変わり、決して手に入らないのです。

生きることは、セックスそのもの。しかしそこには何もない。
どこにもたどりつかない彼女の生き方を見ているとそう思えてしまう。

『パリ、ただよう花』"Love and Bruises"(2013)
監督:ロウ・イエ
出演:コリーヌ・ヤン、タハール・ラヒム
[PR]
by kou-mikami | 2014-01-18 10:35 | パリの映画
フランソワ・トリュフォー『華氏451』
久しぶりに『華氏451』を観ました。
SF映画が好きで、よく見ていますが、
中でもフランソワ・トリュフォーのこの作品は
映像がSF的でないために、余計に心に残る不思議な作品です。
レイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』が原作になっています。

e0141635_153595.jpg


【この映画の背景】
本を読むことが禁止された近未来社会。
書物は発見され次第、消防士たちによって焼却処分されます。
有無を言わせないその作業は冷酷でありシステマティックです。
本来火を消すはずの消防士が、未来では本を焼く仕事に変わっている点が
ユニークで面白いです。
何故本が禁止されるのかという理由も興味深く、
それは真実ではない人間の物語は人を不幸にするため。
では小説以外の書物はよいのかというとそういうわけではないらしく、
哲学書や思想書はさらに危険な思考を人に植え付けるため
本という本は全て焼却処分の対象になっています。

本のない近未来の日常生活は味気ないものとして描かれています。
ただ大きなスクリーンでエクササイズらしき映像や政府発信のニュースを
眺めて一日を過ごしています。また頭を使う暇を与えないと考えられる
スポーツも奨励されているようです。
考えないことは幸せなことだという政府のスローガンが
国民のほとんどに浸透した全体主義の世界です。
これは1956年制作のイギリス映画『1984』にも通じる世界観です。

e0141635_1541173.jpg


【ストーリー】
消防士として日々本の焼却を行うモンターグは
本を1冊も読んだことがなく、読書は人を不幸にすると信じている。
あるとき通勤モノレールの中で近所の女性クラリスと出会い話をする。
彼女は本の素晴らしさを知っていたが、彼はそれを信じずに否定する。
ある日、ふとしたきっかけでモンターグは本を読み、その虜になる。
しかしそのことが妻や消防団にばれてしまい、逮捕を恐れて街を逃げ出し、
クラリスが教えてくれた本のユートピアを目指す。

【映画の矛盾点】
消防士の上司が作家名や小説のタイトルを口にする場面がありますが
本を嫌悪し焼くだけの仕事をしている消防士たちが
何故そこまで文学に詳しいのかが不明です。
監督としては自分の好きな小説を、会話の中に登場させたかった
のかもしれません。

また逃亡した主人公が捕まらなかったために
政府が嘘の犯人をでっちあげるシーンがありますが
犯人逮捕をせずに嘘の情報ばかりを流していたら、
政府の敵たちはどこかに集まり、レジスタントになる可能性があるのでは
ないでしょうか。全体主義国家にしては対策が甘いと感じました。

【印象に残った映像】
『華氏451』はSF映画ですが、SFらしいところはあまりありません。
しかし個人的にはそんなレトロな部分に強く惹かれます。
自然の多い田舎の町に何故かモノレールが走っていたり、
(乗客がレトロなUFOのように梯子で降りてくるシーンも面白い)
大型スクリーンが置かれた部屋の内装はシンプルで未来的ですが
東洋的なオブジェなどが置かれて少し異様な雰囲気です。
60年代の欧米の家はこんなリビングだったのでしょうか。

他に、発見した本を金網の上で焼く場面もSFとは思えないアナログさ。
あきらかに合成と思われる、警察が空を飛んで主人公を
捜索するシーンも、『マイノリティ・リポート』の原点のようで面白い。
テレビの中の人物と会話できるシステムも、まさに21世紀を先取りしていますが、
会話がほとんどかみ合わず、全体主義的な重苦しさを感じさせます。
今見ると、かなりシュールな雰囲気が映画全体に漂っていますね。
そんな映像の細かな部分を見るのも、SF映画の楽しみの一つです。

【感情が失われた社会は今の世界にも通じる】
この映画で特に印象に残ったのは、
近未来社会では皆、感情を恐れていることです。
家では部屋の中にある巨大スクリーンを見て過ごしているため
人間の感情は失われ、映像に魂が奪われているかのようです。
しかしあるとき、主人公が禁止にされている小説を妻の友人たちの前で
朗読すると、友人の一人が感動して泣きだしてしまいます。
しかしその涙を、皆怖がり本に対して恐怖を感じるのです。

それは私たちのいる社会から見たら異常であり信じられないことですが
テレビやパソコンを見る現在の日常からかけはなれているとは思えません。
むしろ、現在の社会の延長線上に『華氏451』の世界はあるのかもしれません。

「華氏451」"Fahrenheit451"
監督:フランソワ・トリュフォー
制作年:1966年
主演:オスカーウェルナー、ジュリー・クリスティ
原作:レイ・ブラッドベリ『華氏451度』
[PR]
by kou-mikami | 2014-01-13 15:31 | パリの映画
少女の思春期をリアルに描いたフランス映画『水の中のつぼみ』
ずっと気になっていたフランス映画『水の中のつぼみ』をようやく鑑賞しました。
制作当時27歳だった女性新人監督セリーヌ・シアマのデビュー作。
パリ郊外に住む少女の憧れや初恋を描いた作品です。
出てくる3人の少女一人一人の個性がリアリティをもって描かれ、
特に純粋で真剣で露悪的なところが、少女という存在の普遍的な特徴を捉えていました。
思春期の少女たちの変化と残酷さを見せてくれる美しくユニークな映画です。

e0141635_9292987.jpg


【ストーリー】
舞台はパリ郊外。
15歳の少女マリーは、小太りで冴えない親友アンヌといつも一緒だった。
あるときシンクロナイズド・スイミング教室の競技大会にアンヌを応援しに行くが、
そこで他のチームにいた魅力的な年上の女性フロリアーヌに目を奪われてしまう。
大会後、彼女へ近づきたくてシンクロ教室に入ることを決めるマリーだったが、
フロリアーヌはそんなマリーを煙たがり、冷たくあしらって相手にしない。
しかし親元を離れない子犬のように自分を慕い続けるマリーを見ながら
フロリアーヌは徐々に彼女に対して心を開いていく。
年上の女性と行動を共にすることで新しい世界を知っていくマリーだったが、
フロリアーヌのよくないある噂を耳にして当惑する。
そして今まで仲のよかった親友アンヌとも次第に距離を置いていく。


【憧れは自分を見失うこと】
ほとんど少女だけしか登場しない狭い世界の物語ですが、
これは誰もが経験する「新しい世界への憧れ」を描いた作品。
小学校から中学校の初めまで、子どもは穏やかで小さな世界に属しています。
しかし、ある日その向こうに大きな世界があることに気が付きます。
この映画はその世界を発見した瞬間から始まります。
オープニングの音楽のない水中映像は、少女が観た新しい世界そのもの。
そんな憧れの眼差しがカメラを通して観客にも直接伝わってきます。
主人公マリーにとっては、シンクロの大会で見かけたフロリアーヌの姿こそが
今までにない「新しい世界」だったのです。

e0141635_9301224.jpg


しかし、それは一方で今までの「古い世界」の消滅も意味します。
今まで親友だったアンヌ(古い世界)に急に嫌悪感を持って距離を置くようになり、
その代わりとして憧れのフロリアーヌ(新しい世界)に近づきます。
しかし、それは生まれて初めての経験であり、親しんだ世界ではありません。
新旧2つの世界の間でとまどう矛盾ばかりの自分の存在に苦しむことになります。
憧れによって自分を見失い、今までいた世界を嫌悪し捨て去っていく。
ここまで思春期の誕生を克明に描いた映画はないかもしれません。


【もう一人の主人公アンヌ】
主人公はマリーですが、
映画はマリーの親友アンヌの視点も追っていきます。
マリーがフロリアーヌに憧れをもったのと同じ日に
アンヌも一人の男性フランソワにプールの更衣室でばったり出会って恋をします。
偶然にもマリーとアンヌは同じ日に、新しい世界を見つけるのです。
しかしアンヌは自分の容姿にコンプレックスを持ち、自信を持つことができません。
それでもなんとかしてフランソワの気を惹かせたいというしたたかな思いが
リアリティのある不器用な行動を持って描かれています。

その日以降、二人は同じ空間にいながらも、別の世界に目を向けるようになります。
今までどおり日常生活は続いているのに身近な相手に関心を持たなくなる残酷さや
思春期独特のすれ違いや苛立ちが、とてもリアルに描かれています。


【映画とは思えないリアルな演技】
登場する3人の少女役の女優はどれも個性的な素晴らしい演技をしています。
主人公マリー役のポーリーヌ・アキュアールは、一途な少女をどこまでも純粋に演じます。
特に未知の世界を見つけた彼女の、自己を失うほどの真剣な瞳は一見に値するほど魅力的です。
マリーの親友アンヌ役のルイーズ・ブラシェールはコンプレックスだらけの
どこにでもいる少女を、どこまでもリアルに演じています。
マリーが憧れるフロリアーヌ役のアデル・エネルは
大人びた演技で、子どもと大人の間で揺れる繊細な少女を演じています。

e0141635_93007.jpg


【この映画のもう一つの舞台、水】
またこの映画は水を舞台にした映画と言えるかもしれません。
邦題『水の中のつぼみ』が意味するように、彼女たちは常に水の中にいるのでしょう。
身近にありながら普段は気にも留めず、それでいて常に変化する透明な液体。
オープニングは水中でのシンクロのシーンから始まり、ラストも水の映像で終わります。
水に入ることによって新しい世界に出会い、その水におぼれて自分を見失い、
そして最後にはその水の中に安息地を見出していく。
全ての少女が通る不安定な時期を、水を利用することによってうまく映像化した映画です。


【原題Naissance des Pieuvresの意味】
『水の中のつぼみ』の原題は"Naissance des Pieuvres"(タコの誕生)。
タコにはフランス語で「厄介な存在」という意味があるようです。
少女の思春期という「美しいけれど不安定で厄介な存在」が生まれる瞬間を描いた映画と言えるかもしれません。
フランス少女の初恋や憧れが女性監督の目線で描かれています。
『水の中のつぼみ』は珍しく邦題が素晴らしい映画です。
原題そのままの『タコの誕生』では日本人には意味が分かりにくいし、
プールで生まれる少女の初恋や憧れをうまく表しているタイトルです。

幻想が失われたとき、二人は成長します。
最終的に憧れを捨てることで、少女は大人になっていく、
何故なら憧れを持ったり他人の教えを受けている間はまだ自分というものはない。
それを乗り越えて初めて、自分が生まれるのだと思います。
この映画はそんな「誕生」の映画であるのかもしれません。

『水の中のつぼみ』("Naissance des Pieuvres" 2007)
監督:セリーヌ・シアマ(Celine Sciamma)
出演:ポーリーヌ・アキュアール、ルイーズ・ブラシェール、アデル・エネル
[PR]
by kou-mikami | 2013-09-07 09:34 | パリの映画



パリ関連の記事やフランス映画を紹介するブログです。パリの写真・観光情報は写真サイト「パリの写真」を御覧ください。
by kou-mikami
パリの写真
カテゴリ
全体
フランス映画
パリの子供
パリの映画
パリの脇役
パリの動物
パリの中の異国
パリのアート
パリの街角
パリの落書き
パリのシルエット
パリ郊外にて
パリの作家・芸術家
パリ関連・その他
パリのお店
パリの公園
パリの文化
パリの小説
パリの演劇
未分類
最新の記事
ジャック・ドワイヨン『ラブバ..
at 2017-02-02 09:27
フランソワ・オゾン『彼は秘密..
at 2017-01-30 08:51
イングマール・ベルイマン『仮..
at 2016-02-05 19:21
ミシェル・ウエルベック『服従』
at 2015-12-11 08:15
ウジェーヌ・イヨネスコ『犀』
at 2015-11-22 12:20
以前の記事
2017年 02月
2017年 01月
2016年 02月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 08月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 06月
2013年 04月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 10月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 09月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
「パリ、ただよう花」
from ここなつ映画レビュー
映画『ホーリー・モーター..
from INTRO
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧