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ミシェル・ウエルベック『服従』
ミシェル・ウエルベックの『服従』を読んだ。
イスラーム同胞党というムスリムの政権が実権を握った近未来のフランスが舞台。
主人公はソルボンヌ大学で教鞭をとる中年教授で、19世紀のデカダンス作家ユイスマンスを専門としている。
文学に精通しながら孤独な性生活を送る彼が最終的にイスラム教に改宗するまでを描いた物語である。

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フランス国内でキリスト教の人口よりイスラム教が増えるという大きな出来事を契機に価値観が根底から崩される日常が淡々と描かれ、見えない透明な影が迫ってくるようで怖い。
現代政治を背景にしながらも、描かれるのは個人の内省的な世界。文学教授ならではの作家愛や、過去と未来に関する考察、宇宙の成り立ちなど知的な会話が満載のフランスインテリの世界が繰り広げられる。

日常の中に入り込んでくるイスラム教によって、彼の世界観は徐々に変えられていく。
そしてもはやキリスト教では自分の孤独は救われないことに気づく。
ムスリムの教授たちと交わされる会話の中で、宇宙に関する考察が出てくるのが興味深い。

わたしが言いたかったのは、宇宙は確実に、インテリジェンス・デザインの徴を帯びているということで、それは巨大な知性によって考えられたプロジェクトの実現なのです。

だいたい、どこにでもある星雲の広げた腕の先にある、無名の惑星の上に住むこの虚弱な生きものが、小さな手を挙げて『神は存在しない』などと主張するなど、少しばかり馬鹿げているところがあるのではないでしょうか。(ミシェル・ウエルベック『服従』)


宇宙は神が作ったものであり、知的で合理的なデザインによるものだということ。
そこに服従することで幸福が得られるというものだ。
人間が世界の中心ではなく、宇宙というデザインのほんの一部に過ぎないということだろうか。
そう考えると、イスラム教は非常に科学的な宗教のような気がしてくる。

ミシェル・ウエルベックの『服従』は、テロリストによるシャルリー・エブド社襲撃事件の当日に出版されたことで話題になり、また「イスラム教とフランス」という内容の現代性からフランス国内で大きな議論の的となった。日本でもメディアで取り上げられたが、思ったほど過激な内容ではなかったように思える。イスラム政権となった近未来フランス社会はたしかに刺激的な舞台だが、主人公の周りにあるのは恐ろしいほど静かな世界だ。それは一人の中年男の孤独な愛の物語であり、イスラム教という新しい愛の形を受け入れる時間である。
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by kou-mikami | 2015-12-11 08:15 | パリの小説
ウジェーヌ・イヨネスコ『犀』
ウジェーヌ・イヨネスコの演劇『犀』を観てきた。「犀(サイ)」というあまりに印象的なタイトルは一度聞けば忘れることができない。私が公演を見に行ったのも、このタイトルに込められた意味に興味をもったからだ。

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作者のウジェーヌ・イヨネスコはフランスの劇作家でルーマニア生まれ。小説家でもあり『大佐の写真』や『孤独な男』などの小説は邦訳もされている。サミュエル・ベケットと同じく不条理な前衛劇を発表していたが、最初はなかなか評価されなかったようだ。しかし彼の小説を基にした戯曲『犀』が1960年にジャン=ルイ・バローによって上演されてから知名度が上がる。その後、長い空白を経て2004年にエマニュエル・ドゥマルシー=モタ(パリ市立劇場芸術監督)によってリバイバル上演され、2011年の再演によって世界各国で上演するワールドツアーが始まった。今まで12か国で上演され、今回ようやく日本にやってきた。

物語の舞台はフランスのある街。私はパリを想像したが、劇中に乾燥地帯のカスティーリャという表現が出てきたから、スペインかもしれない。とにかく場所はどこでもいいのだ。
アル中気味のマイペースな主人公ベランジェが友人ジャンと一緒にカフェで喧嘩していると、一頭の犀が街中を駆け抜けるショッキングな場面を目撃する。翌日のオフィスでも犀のニュースでもちきりだったが、目撃者ベランジェと同僚のデイジー以外、誰も犀の存在を信じようとしない。しかしオフィスにも犀が現れ、それが同僚の変身した姿であることが分かる。そして徐々に周りの人々が犀へと変身し、自分を罵っていた友人ジャンも自分の目の前で犀になってしまう。ベランジェは犀になることを拒否して想いを寄せる同僚デイジーと生きていくことを決意するが、デイジーも最後は犀の道を選んでしまい、ベランジェは一人取り残される。

これだけ聞くとなんとも不条理な物語だ。しかし実際に演劇を観てもその印象は変わらない。町中の人がどんどん皮の硬い犀になっていく。こんな馬鹿なことは実際に起きないだろうと誰もが思う。しかしこの不条理さはまさに現代世界をそのまま表しているようにみえる。この話はもともと作者ウジェーヌ・イヨネスコが祖国ルーマニアでの青年時代に目撃したファシズムの浸透をモチーフにして作った物語だった。世界大戦の最中、突如現れたナチスに人々は驚き、そしてその戦術に嵌まり感化されていく。そして多数派の意見が正しいとされ、少数派はどんどん迫害されていく。そう考えると『犀』はナチス・全体主義の恐怖を描いた戯曲だが、本当に怖いのは人間の中にある不安だ。人間は常に不安を感じる生き物であり、それが今までに多くの悲劇を生んできた。

『犀』では一貫として自分の存在に対する不安が描かれている。周りがどんどん犀に変身していく中で、自分が人間でいることが正しいのかどうかベランジェは悩む。そして次第に犀を美しいと感じるようになる。それは人間の中にある弱さだ。
以前からベランジェは人間関係の悩みや自分だけ周りと違うと思い込む疎外感から、自分の存在に対してずっと疑問を抱き続けていた(それがアルコールに溺れた原因かもしれない)。そして街中に犀が現れたとき、その不安はさらに具体的な形となってベランジェの前に提示される。
最初ベランジェはただの傍観者であり、犀を危険なものとは考えていなかった。しかしその危険に気が付いたとき、すでに周りは犀になっていた。自分だけが取り残されていく!その不安を解消する手段は自分の存在を消し、周りと同化すること。しかしそれは他者とのコミュニケーションを拒否し人間一人一人の存在を否定する危険な思想でもある。『犀』が1960年に上演されながら今蘇ったのは、おそらくその危険な思想が現代社会にも蔓延しているからなのかもしれない。今回演出を担当したパリ市立劇場芸術監督エマニュエル・ドゥルマシー=モタは前回の来日会見で次のように言っている。

人間や文化とは逆の存在になる動物への変身は、不条理な性格を持つものです。特にイヨネスコが選んだ犀は、現在の我々からは遠い存在の動物であり、人間と動物のあいだのコミュニケーションの不可能性を表しています。また犀には盲目的、怯えると危険な存在になるという特徴があります。『犀』を演出しようと思ったことは挑戦でしたが、私は直感的に「イヨネスコに戻るべきだ」と判断したのです。イヨネスコが持つ現代的な側面を明らかにすべき時が来ていると思います。
(2015/9/8 アンスティチュ・フランセ東京エスパスイマージュ ※一部省略)

『犀』の日本上演が11月13日に起きたパリ同時多発テロのあとだったため、この演劇はますます今起こっている世界の不条理さを表しているように思えた。テロの恐怖は警備を強化するだけではもはや解決しない問題になっている。人間の根本にある不安と無知がテロリストを増やし、多くの悲劇を生む温床になっている。私にはテクノロジーの進化とコミュニケーションの進化は反比例しているように思える。『犀』はそんな人間の抱える最大の問題とその対処に対して答えは出していない。しかしそれを考えるきっかけを与えてくれる意味で、非常に大切な現代の寓話ともいえる。誰もが主人公ベランジェであり、犀のいる世界にいま生きている。

パリ市立劇場『犀』"Rhinocéros"
作:ウジェーヌ・イヨネスコ
演出:エマニュエル・ドゥマルシー=モタ
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by kou-mikami | 2015-11-22 12:20 | パリの演劇
マルセル・ムルージ『エンリコ』
この前神保町の古書市へ行ったとき、ふと一冊の本が目に留まった。赤ワイン色の表紙にモノクロの写真が2枚載っている。まさかとは思ったが、やはりそれはウジェーヌ・アジェのパリ写真で、本には『エンリコ』という不思議なタイトルがつけられていた。小説の表紙がアジェの写真で飾られていることにただならぬ気配を感じ、買うことにした。このような発見があるからこそ古書市はやめられない。

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作者はマルセル・ムルージ。初めて知ったが、どうやらシャンソンの歌手でもあったようだ。日本では『ちいさなひなげしのように』という曲で知られている。小説のタイトルは主人公の名前だった。
物語はパリの貧民街ベルヴィルで生きる少年エンリコの日常を描いたもの。心の優しい主人公の貧困と周囲からの隔絶という意味では、エマニュエル・ボーヴの作品にも通じるものがある。しかしエンリコにはボーヴの主人公のような暗さはない。暴力を振るう母親、アル中の父親に挟まれながらも、絶望的な環境の中で文句も言わずに必死に生きるエンリコは信じられないほど強い気力の持ち主だ。

ところで私は舞台となったべルヴィルに興味を持っている。パリに住んでいたころにはよくそこへ出かけ、朝市でリンゴを買ったりした。現在は貧民街というよりは移民街だが下町の雰囲気は昔と変わらず、当時も現在と似た部分はあったのだろう。パリの貧民街というだけで私はその世界に入ってみたくなるし、そこにある孤独や貧困の心象風景がまさにウジェーヌ・アジェの写真と見事に重なり合っている。本の中にも3枚だけだがアジェの写真が挿絵のように挿入されているのも嬉しく、それは図解というよりは物語に完全に溶け込んで小説の一部になっているように思えた。
文体は無駄をそぎ落としたシンプルなもの。ヘミングウェイの文体を学んだらしく、たしかに似ている。しかしヘミングウェイに詩的な描写を追加したような感じでもあり、風景描写はまさに子供の目から見たパリの風景で心に残る。

煙突のなかに、猫に似ているものがある。そうなんだ。屋根々々の上にいつも足りないのは、この無数の猫なんだ。ぐるりの風景は、いつでも同じ曲の流れだすレコードに似ている。あちこちの、重々しい記念碑や建物が、夜番みたいに、町を守っているように見える。向こうには、山々が色つきの絵のように浮かびだし、さらにその背景を、悲しげな、いくつもの白い雲が、別れの時の白いハンカチのように、流れて行く。


まさにシャンソン歌手だからこそ描ける秀逸な表現だろう。子供ならではの独特の視線でパリを見ているのが新鮮。また物語の中の時間はどんどんと流れる急流のようでもあり、一日で区切られることなく毎日続く日常が子供の目線で地続きのように語られているのも面白い。印象に残ったことだけで人生ができあがっているような感じだ。

そしてエンリコ少年の日常には貧困だけではなく、親から受け継がれた「血」の存在が暗い影を落としている。そこが小説の核となり、アルジェリア移民の子である作者マルセル・ムルージの生い立ちにも関係してくる。エンリコの父親はアルジェリア人、母はフランス人のようで、常に母親から虐待を受けている。それはエンリコがアルジェリア人である父親似であるためで、母親はアル中の夫を憎んでいるが故に、父に似ているエンリコをも憎しみの目で見ている。反対にエンリコの兄は母親似のため虐待を受けることなくかわいがられている。

「どうしてなんだろうねえ、おまえが兄ちゃんのように、青い目をしていないのは?え、そうだろう、黒ん坊や?」


母親のこのセリフは理不尽以外のなにものでもないが、それこそが人間の中にある人種的偏見なのかもしれない。差別はとんでもなく理不尽であるが、確実に人間の中に存在するものだ。母の父親に対する憎しみは父がアル中であるせいなのか、移民であるせいなのかは分からない。しかし、その憎しみにはすさまじいものがある(毎日両親の死闘のような喧嘩が繰り広げられ、エンリコはその被害を受けている)。エンリコ少年はそれをよくわかっていて、母親に憎まれていることを心の中で何度も嘆く。

『ああ、なぜぼくは父ちゃんと同じ顔に生まれてきちゃったんだ』とぼくは思う。『母ちゃんがぼくをきらうわけは、父ちゃんと似ているからなのだ。さて、今夜はどこへ行って寝よう?また墓場みたいな空き地へ行くか?』


また一番ひどいのは兄と弟を完全に差別化している母親の態度だろう。この小説では主人公の兄の存在感は驚くほど薄いが、たまに登場する兄はとにかく母親の兄に対する露骨な贔屓を見せるためだけに存在しているようでもある。たとえば次のような文章がある。

ぼくの耳に、階段をのぼってくる兄ちゃんの足音が聞こえた。しばらくして、ドアがあく。『助かった』と、ぼくは思った。母ちゃんは兄ちゃんにキスし、両手で兄ちゃんの顔をはさんだ。「かわいい子だよ」と、母ちゃんはやさしくいう。「おまえは青い美しい目を持っているんだね!」そして狂おしくキスをする。
やがて、顔を上げると、母ちゃんは不快そうにぼくを見すえ、
「一発くらわしておやり」
と、僕を指さしながら、兄ちゃんにささやいた。兄ちゃんはぼくに近づくと、ぼくをぶんなぐった。ぼくはベッドの足もとのじゅうたんの上にころがる。兄ちゃんと母ちゃんは一緒に笑いだした。できるものなら、ふたりを苦しめるために、この場で死んでやりたい、ぼくはそう思ったほど、ふたりに対して腹が立った。さも痛そうなようすをして、一度ぼくは顔をあげたが、ふたたびばったりと倒れる。ふたりの笑い声が腹にずんとこたえ、僕は恥にまみれる。気を失ったふりをしながら、頭の中で犯罪現場を思い描いた。


しかし驚くのは母親からこれほどひどく憎しみを持たれながらも、母親を恨むことなくただ耐えて生きるエンリコ少年の生命力だ。これは読んでいて信じられないほどで、またこの小説が単なる貧困の悲しい物語ではない点でもある。彼は彼なりに家族を愛し、そして正しい生き方はどこにあるのだろうと模索しているのだ。

『この世の中で、狂っていない生き方というのは、どうすれば見つかるのだろう?』と、ぼくは思った。『父ちゃんも母ちゃんも、死人のようだ。そしてぼくは、ふたりを思い出として愛している。いったいぼくはなにをしたらいいんだ?だが、そんなことはどうだっていい。若いくせに老人のように将来を思うなんて、ぼくはまっぴらだ。メンドリが、母親らしく喘息病みの幼な子を、ひなのようにかかえこんでいようと、父親が、父親の仕事をちゃんと続けようと、若者が夢想にふけろうと、また小さな信者が神を信じようと、要するにこのぼくは生きているんだ!』


エンリコ少年はこんなにも強く愛情深い。ひどい両親と一緒に暮らしながらも2人を愛し、また同じ貧民街に住む少女に恋したりもしている。父親に連れられてモンマルトル界隈の活気あふれる酒場に行ったりしてアル中の父親の看護をしたりする場面は滑稽でもあり面白い(たいていは父親が酔っぱらいすぎて、母親にひどく怒られるパターンだが)。それは世界のどこにでもいる少年と同じ姿だ。ところで酒場で子供のメニューとして出されていたグレナデンは、ザクロのシロップのようだが、それはパリの酒場の定番ドリンクなのだろうか。

下町にあるのは憎しみだけでなく、同じだけの愛情もある。暴力的な母親もエンリコを憎むだけでなく、それ以上に息子を愛していることが分かる。やはり血のつながりというのは憎しみだけでなく、愛をも呼び起こすものなのだろう。日常でエンリコを殴りながらも、急に優しく抱きしめたりクリスマスにはプレゼントをくれたりするのだ。しかし、このような愛と憎しみの繰り返しの生活は穏やかではなく、疲れを感じさせるものでもある。エンリコ少年の人生のような、これほどまでに憎しみと愛の混ざり合った物語はなかなかないだろう。

この小説は1943年に発表されたという。狭く汚いアパルトマン、罵り合う隣人たち、アル中の父親に暴力的な母親。この時代のパリのべルヴィルはこんな風景が実際にあったのだろうか。パリの下町はますます興味深い。読んでいて思い出したのはレーモン・クノーの『地下鉄のザジ』(1959)。あちらもパリを舞台に子供を主人公にした小説だが、ザジがコメディの要素が強くシュルレアリスム的であるのに対し、エンリコはより現実的であり、事実作者の実体験にかなり近いのだろう。ラストは作者の生い立ちと重なって悲しい結末であるが、まるで愛と憎しみの具がごった煮になったどんぶりのような小説である。
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by kou-mikami | 2015-11-08 18:19 | パリの小説
クリス・マルケル『ラ・ジュテ』
アテネフランセ文化センターでクリス・マルケルの『ラ・ジュテ』を観た。
1962年製作のフランスのSF映画で、作成手法が一風変わっている。
映画なのに映像ではなくモノクロ写真の連続によって作られた不思議な作品で
「フォトロマン」と呼ばれる手法だという。

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タイトルの『ラ・ジュテ』(La Jetee)は「空港の搭乗用通路」や「防波堤」を意味するフランス語で、空港が映画の中で重要な意味を持つ。
わずか28分の映画なのに、過去の記憶というものをこれほど深い眼差しで描いた映画は他にないだろう。私にとって忘れられないフランス映画の一つとなった。

物語の舞台は第3次世界大戦で荒廃した未来のパリ。
そのためパリの街並みは全く映されず、場面のほとんどが暗い地下だ。
地下に住み着いた支配者は汚染されていないエネルギーを別の時代に求め、
捕虜たちを実験台にして過去への時間移動を試みる。

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しかし過去への旅行は精神的なダメージが大きく、
被験者となった捕虜たちのほとんどは途中で意識を失ってしまう。
時間移動には「強い意識」をもった人間が必要で、
最終的に一人の男(主人公)が実験台として選ばれる。
主人公は過去にオルリー空港の送迎台で出会った女性に
もう一度会いたいという「過去への強い想い」があった。
そして数回にわたる過酷な実験を繰り返し、
ついに過去へと戻り、その女性と再会する。

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映像の中には具体的な未来の風景はほとんど出てこない。
その状況がナレーションによって語られるだけだ。セリフもない。
それなのに、言葉によって凝縮された世界観は観るものを強く刺激する。
ある意味、絵画的な物語構造をもった映画と言えるかもしれない。
また未来を描くSF映画であるのに、物語の中心は過去の世界というところも
面白い。(最終的には舞台である未来のさらに未来へと移動もするのだが)

印象的だったのは、過去に戻った主人公が女性と剥製博物館を見学するシーン。
この場面を観ていてブレッソンの『やさしい女』の一場面を思い出した。
永遠に固定された動物たちの存在は、二度と戻らない過去、もしくは時間の一瞬の美しさを暗示しているのだろうか。
もしかしたらフランス人は剥製が好きなのかもしれない。

またこの映画は過去だけでなく、さらに先の未来世界へも移動する。
そのときにパリの未来的映像が俯瞰図で表現されていたが
その細胞を拡大したようなパリ風景が個人的に気に入った。

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一部を除いて全編写真(静止画)によるショットが続くが、
それが全く退屈しなかったのは映像とは異なる写真の魅力のせいだろう。
特に主人公が出会った女性の固定された顔の表情は写真ならではの表現だ。
映像よりも一瞬を切り取った写真本来の力を見た気がした。
また『ラ・ジュテ』が写真の連なりによって構成されているのは、
失われた過去を描いた映画だからなのかもしれない。
表現手法そのものが、この映画の本質を伝えている。

この実験的な映画は若手フランス映画監督に贈られるジャン・ヴィゴ賞を受賞し話題となった。
監督のクリス・マルケルはヌーヴェルヴァーグを代表する映画監督であると同時に
写真家でありジャーナリストでもあった。
ちなみに主演のエレーヌ・シャトランとダヴォ・アニシュは
生涯でこの映画にしか出演していない。
その後『ラ・ジュテ』は多くの映画監督に大きな影響を与えた。
ジャン=リュック・ゴダールの哲学的要素の強いSF映画『アルファヴィル』や
『ラ・ジュテ』を原案としたテリー・ギリアムの『12モンキーズ』は
その顕著な例だろう。
ハリウッドでいえば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ターミネーター』にも影響を与えている。

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この映画が教えてくれるのは「時というものの不可逆性」だ。
過去へ戻ることはできない。時の流れは常に一方通行だからだ。
過ぎ去ってしまった「時」について、誰もその在り処を知ることはできない。
だからこそ過去の記憶の在り処を探る主人公の時間移動が
今まで見たこともない美しい旅へと観客を誘う。
たとえラストに悲劇があろうとも、主人公が垣間見た断片的な女性の顔こそ、
彼が帰るべき場所だったのだろう。

絶対に取り戻せない過去というものを刹那的であれ取り戻すことによって
この映画はSFの傑作となった。

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『ラ・ジュテ』"La Jetee"
1962年 / フランス
監督・脚本:クリス・マルケル
出演:エレーヌ・シャトラン、ダヴォ・アニシュ
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by kou-mikami | 2015-08-14 11:02 | フランス映画
フィリップ・ガレル『ジェラシー』
フィリップ・ガレルの新作『ジェラシー』を観てきた。
アンスティテュ・フランセ(日仏学院)での先行上映会で
会場には多くのガレルファンと思われる人たちが来ていた。

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【ストーリー】
物語はある家族を描いた非常に個人的なものだった。
離婚して新しい恋人クローディアとの新生活を始める男ルイが主人公。
貧しいながらも彼女を愛し役者の仕事を続けるルイは、典型的な芸術肌のパリジャンだ。
しかし徐々にクローディアは理由のない嫉妬によって精神を病んでいき、
裕福な建築家の元に去っていく。
恋人に去られて生きる希望をなくしたルイは自殺を図るが死ぬことはできなかった。
退院後、元妻との間にできた娘と会話することにより、
ルイは人生にかすかな希望を見出していく。

『ジェラシー』は離婚と再婚を繰り返す男女の空しい生活が細かく描かれていて、
現代フランスの恋愛としては、なかなかリアリティがある。
この映画のもう一人の主役は主人公の娘シャルロットで、大人びた感じがまた可愛い。
家を出ていった父と外で会って話したりするシーンはフランスの典型的な家族風景で、
そこにある種の希望が見えるが、物語はどこにも行きつかずに不意に終わる。
終わってみると物語というよりは断片的な人生の一部分を観たような感じだ。

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【主観的で個人的な愛に関する物語】
監督フィリップ・ガレルは自身を「ヌーヴェル・ヴァーグの弟子」と言っており、
その作風はやはりヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの意思を継承しているように思える。
その特徴としては「個人的で主観的」であることが挙げられるだろう。
大きな物語やクライマックスがあるわけではなく、世界は個人の家族に限定される。
そこには社会悪もヒーローも、解き明かすべき謎も、暴くべき陰謀も出てこない。
そして自分の愛する人をカメラの中に収めたいという個人的な欲求。
女優の顔のクローズアップを多用した主観的な視線。
これらはフランス映画の本質をついており、やはり『ジェラシー』は
ヌーヴェル・ヴァーグの流れを継承した作品と言えるだろう。

フィリップ・ガレルは今までにヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌姫ニコや
女優ジーン・セバーグなど、彼が愛した女性たちをスクリーンの中に登場させている。
それは物語構成のために必要な役者としてではなく、
ただ彼女たちをスクリーンに映したいがためである。
そこには客観的な映画制作はなく、あくまで主観的なスタンスから映画を生み出している。
それはまたハリウッドと相反するフランス映画の特徴の一つとも言えるし、
今でもそのような映画はフランスでは評価の対象となっている。
そこがガレルの映画が美しく芸術的である理由だと思う。

フィリップ・ガレルは映画という第9の芸術についてこう言っている。
「芸術とは主観的なものであり、客観的な芸術などありえない」


【『ジェラシー』というタイトルについて】
『ジェラシー』はタイトル通り、嫉妬という感情をテーマにした映画だ。
しかし嫉妬の感情に苦しめられるのは主人公ではなく、
主人公に離婚を切り出された元妻であり、主人公の新恋人であるクローディアだ。
フランス語のLa Jalousieが女性名詞であるのは偶然だと思うが、
やはりある意味で『ジェラシー』は女性の視点から見た映画かもしれない。

また監督はジェラシーという感情についてこう言っている。
「『嫉妬』というのは『不和』よりひどい状態だ。
だが同時に、『嫉妬』とは誰もがかつて感じたことのある何かであり、
誰もが罪悪感を感じるもので、さらにはその正体を解明したいと思わせる側面もある」

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【存在感の希薄なルイ・ガレル】
女性たちの嫉妬が強く画面に出た映画『ジェラシー』だが
その一方で肝心の主人公であるルイの存在がとても希薄な気がした。
あまり感情が表にでない人物なのかもしれないが、
女性と恋をして演劇に熱中するも、主人公として何かが足りない。
彼の苦悩というのものがリアリティをもって感じることがあまりできなかった。
彼がピストルで自殺を図ろうとする場面も、どこか演劇的で現実味がない。
自分を傷つけて相手の気を引こうとするのはパリジャンの特徴なのだろうか。
またそこには男が行うある種のロマンチシズムが感じられ、
女性の現実的な面との差異がより浮き彫りになる気がした。

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【美しいモノクロ映像】
ガレルの映画が美しいのは、被写体への強い愛情だけでなく、
彼の撮影技術が伝統に則ったものだからかもしれない。
『ジェラシー』には物語の流れよりも、美しい映像を撮りたいという監督の偏った熱意が感じられる。
しかしそのような偏狭的な想いがあるからこそ、彼の映画は美しく芸術的でもある。
また技術に関しては今回の映画は35ミリのモノクロで撮影されている。
フィリップ・ガレルは映画発明当時の無声映画が大好きで、
現在の商業的なスペクタクルにはあまり関心がないという。

フィリップ・ガレルは映画の伝統を守る意義についてこう語っている。
「私はリュミエール兄弟の時代の映画の伝統にこだわっています。
逆説的に聞こえますが、芸術的な意味では初期の伝統に執着することによって、
かえって革命的になれると思うのです」

また彼は古いカメラで映画撮影を続けることをについてこうも言っている。
「古いカメラで撮る、35ミリフィルムを使うことや編集機材を使うこと、
こうした手法をあきらめてはいけないということです。
そうでないとこういった手法は、今に商業映画に、つまり産業としての映画に潰されてしまいます。ですから絶対にあきらめてはいけないのです」


【『ジェラシー』に見るフランスの家族】
この映画を観てわかるのは、
離婚後も子供と良好な関係を保つフランス人家族の強いつながりだ。
男と女は別れたとしても、2人の子供との関係にヒビをいれることはしない。
子供にとってはいつまでも父と母であり、親権がどちらに渡ったとしても
両親は子供に定期的に会って話しその愛を確認する。
日本ではなかなか見られない光景だがフランスではそれが自然な社会の形だ。
これはフランス人が人生を愛すべき舞台として保つための秘訣のような気もする。

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『ジェラシー』ではそんな典型的なフランスの親子関係が描かれていた。
この物語はガレルの父モーリス・ガレルをモデルにした物語になっているという。
またその主人公を実の息子ルイ・ガレルが演じており、
ルイの実の妹エステル・ガレルも妹役として映画に出演している。
脚本には現在の妻であるキャロリーヌ・ドリュアス=ガレルが参加しているというから
一家総出で映画に情熱をかけているという奇跡のような家族映画だ。
しかし、このような家族ぐるみで純粋な映画制作ができるのも、
日本と違うフランスならではの文化的土壌がなせるものだと思う。
ガレルにとって、映画は家族であり、家族は映画であるのかもしれない。

"La Jalousie" 『ジェラシー』 (2013/フランス)
監督:フィリップ・ガレル
撮影:ウィリー・クラン
出演:ルイ・ガレル、アナ・ムグラリス
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by kou-mikami | 2014-09-18 10:03 | パリの映画
悲劇的な友情 アンヌ=ソフィ・ブラスム『深く息を吸って』
人は過ちを犯した時、それを告白することで楽になりたいと思う。

アンヌ=ソフィ・ブラスムの『深く息を吸って』を読んだ。
裏表紙に書かれた「第2のサガン」というキャッチコピーに惹かれて
手に取った小説だが、これはまさに孤独なパリジェンヌの
告白の書というべきものだった。

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作者のアンヌ=ソフィ・ブラスムは1984年生まれ。
フランス東部の町メッツに住み、17歳の時にこの小説でデビュー。
フランスで出版されベストセラーになったそうだ。

10代特有の純粋さと透明感を見事に描いていて、
それゆえの孤独で狂気的な世界が、自分の過去の痛みと伴って
強い共感を持つ作品だった。


【ストーリー】
19歳の少女シャルレーヌは殺人の罪で刑務所に入っている。
彼女は苦しみを吐きだすように、人を殺すに至った経緯を読者に語っていく。
まだ記憶の不確かな幼年時代から、小学生、コレージュ、リセでの
孤独な生活、初めての恋、そして殺人を犯した日の夜の闇まで。

「わたしの幼年時代はほかの子とは違っていた。浮かれ騒ぐこの世の中で、
わたしは自分だけの独自の世界しか感じ取れずにいたのだ。
おそらくこんなふうに孤独を必要としていたことや、他人に理解されずにいたことが、あるときはじめてわたしを"書く"ということにつき動かしたのだろう。」

前半はどこにでもいる内気な少女の回想録といった感じで、さほど意外性はなかった。
しかし主人公がコレージュ(中学校)でサラという女性に出会ったことで、
物語は徐々に狂気的な闇に支配されていく。
生涯の親友だと思っていたサラとのあまりに美しい思い出が綴られるが、
サラは友人のふりをしてシャルレーヌを利用していただけだった。
しかしシャルレーヌはサラの友情を盲目に信じて彼女を慕い続ける。
そして彼女の中でそれは次第に憎しみと狂気に変わっていく。

「普通の人のようにふるまおうと努力しても、自分自身の狂気からは逃げられない。
だって、狂気は何よりも強いのだから。
だから遅かれ早かれふたたび顔を出してくる。お手上げだった。
狂気を鎮めるには、真正面から向きあい、
その命令をひとつひとつ実行していくしかなかった。
結果がどうであろうと、それは問題ではなくて、
実行に移すことで、ようやく狂気から解放されるのだった」

彼女にとって殺人は実行しなければならない問題だった。
彼女の中に狂気が少しずつ生まれていく過程が緻密に描かれ、
彼女の恐ろしい計画を誰も止めることはできない。
それでも彼女の行動を何度も食い止めたいと思うほど
彼女の心の悲しみが自分のことのように伝わってくる。
10代ゆえの残酷な友人関係が起こした悲劇だが、
これは誰の心の中にもある普遍的なものなのかもしれない。


【書くことの意義】

主人公シャルレーヌの孤独で繊細な感覚がよく伝わるエピソードがある。
彼女は8歳の時に親からノートを買ってもらう。
そして彼女は今までの孤独を癒すかのように、自分の世界を
そのノートに書き込んでいく。

「書くということは喜び以上のものであり、単に必要だという以上の意味があった。そして現在もなお、わたしの真実であり、明白な現実に対する、私にとっての唯一の防衛手段なのだ。」

これはおそらく、作者アンヌ=ソフィ・ブラスムが小説家になることを決めた
理由でもあるのかもしれない。
彼女はインタビューでも主人公の一部は自分に似ていると語っている。

「Respireは自伝ではないけれど、サラとの悲劇的な友情を語るシャルレーヌと私は
どこか似たところがある」


【狂気に勝つことはできない】

『深く息を吸って』はパリに住む孤独な少女の物語。
彼女が歩む孤独の世界はつらすぎるものだけど、
初めて人を愛することの素晴らしさを知った彼女の喜びにはこちらも胸が熱くなる。

しかし彼女は自分の中にある狂気に打ち勝つことはできず、
幸せを全て捨てて恐ろしいラストへと突き進んでしまう。
しかし彼女にとってはそれがやらなければならない「正しい道」だった。
世間的に悪を働いても、彼女の世界の論理で言えば「私は勝った」となる。
それが自分の人生にとって幸せではない道だとしても。

彼女は独房を出た後、どんな人生を歩むのだろうか。
これはあまりに純粋な世界を描いた悲劇的な友情の物語だ。


アンヌ=ソフィ・ブラスム『深く息を吸って』
"Respire"(2001)
Anne-Sophie Brasme
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by kou-mikami | 2014-04-12 07:58 | パリの小説
ギヨーム・ブラック『女っ気なし』
映画『遭難者』と『女っ気なし』を観てきた。

フランスの映画監督ギヨーム・ブラック(Guillaume Brac)の劇場初公開作品。
「新しいヌーヴェル・ヴァーグ」を予感させるバカンス映画で、
久しぶりにすごい監督が出てきたと嬉しくなった。

ジャック・ロジエ監督の『オルエットの方へ』を観たときの衝撃を思い出す。
しかしこちらの映画は華やかなOLたちではなく、地味な青年が主人公。
バカンス映画だけど、映画全体に漂ううらぶれてさえない感じが、とてもいい。
孤独でせつないエリック・ロメール映画といった風情を感じさせる。

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【ストーリー】

さびれたリゾート街オルトでホテルの管理人をしているシルヴァンは
バカンスでパリから遊びに来た母娘をホテルに迎える。
天真爛漫でグラマラスな母親と読書好きの美しい娘。
恋人のいないシルヴァンは、なんとか母親の気を惹こうとするが
あと一歩のところでうまくいかない。
日々は過ぎ、そしてバカンスにも終わりがやってくる。

『女っ気なし』はダメ男好きにはたまらない映画だろう。
アメリカ映画ではポール・ジアマッティ主演の『サイドウェイ』を思い出すが、
このフランス映画はさらにリアリティを持って観客の前に提示される。
そして、それは自分自身の心の中にあるダメさの反映となって共鳴する。
またこの映画には美しい映像が全く出てこない。それなのに切なく美しい。
これはまさにヌーヴェル・ヴァーグを継承する監督の才能だろう。

【俳優ヴァンサン・マケーニュ】

今回の収穫は映画だけでなく、その主演俳優だった。
両方の映画に出演していたヴァンサン・マケーニュ(Vincent Macaigne)の
シャイなダメ男ぶりが文句無しに素晴らしい。
一目見て好きになった俳優だ。
もともとは舞台演出や監督の仕事がメインのようだが、
今回友人であるギヨーム・ブラックに頼まれて出演したということだった。

フランス人らしからぬシャイでさえないダメ男を演じたヴァンサン・マケーニュは愛らしく憎めない。
本当に素晴らしい俳優はスクリーンの中で主張せず、
どこにでもいそうな人間としてまるで空気のように溶け込んでいる。
そしてその場にカメラがあることを全く忘れさせてくれる。
ヴァンサン・マケーニュはまさにそんな俳優だ。
彼のような俳優は、ロメール映画にあるようなバカンスで起こる何気ない展開にとても合っている。
そして青年特有の暗い世界を予感させるのも、この映画の魅力の一つとなっている。

【『女っ気なし』のプロローグとなった『遭難者』】

もう一つの映画『遭難者』は『女っ気なし』のプロローグとなる短編だった。
とくに物語が続いているわけではないが、
舞台が同じうらぶれたリゾートの町で、出てくる青年シルヴァンも一緒だ。
パリからこの町に自転車でやってきたサイクリストに一晩の宿を
貸すシルヴァンだが、彼の恋を助けようと余計なおせっかいをしたばっかりに
男の怒りを買ってしまう。
軽やかでユーモアがあって、そして悲しい余韻を残すこの作品は
次に続くバカンス映画の裏話といった役割にもなっている。

【ヌーヴェルヴァーグの精神を引き継ぐ新たなバカンス映画】

『女っ気なし』は『夏物語』と『オルエットの方へ』に次ぐ素晴らしいバカンス映画。
ラストに訪れるバカンスの終わりの開放された雰囲気もいい。
リアリティあふれる色彩とカメラワークはジャック・ロジエ監督の映画に通じるけど、
なにもかもさえない感じがこの映画の特徴でもある。
天気の悪いうらぶれたリゾート街を舞台に、
独り身の青年のなかなか実らない恋をユーモアを交えて描く。
ギヨーム・ブラックの『女っ気なし』はまさに、
あのヌーヴェル・ヴァーグの精神が今も続いていることを教えてくれた。
今年最も印象に残る映画になる気がした。


『女っ気なし』 Un monde sans femmes (2011)
監督:ギヨーム・ブラック
出演:ヴァンサン・マケーニュ、ロール・カラミー、コンスタンス・ルソー

『遭難者』Le Naufrage (2009)
監督:ギヨーム・ブラック
出演:ジュリアン・リュカ、ヴァンサン・マケーニュ、アデライード・ルルー
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by kou-mikami | 2014-04-04 12:11 | パリの映画
ロウ・イエ『パリ、ただよう花』
ロウ・イエ監督の新作『パリ、ただよう花』を観ました。
この映画を観ようと思ったきっかけは、まずパリが舞台だということ。
そしてパリに住む中国女性が主人公だということでした。
パリでありながらフランスではない世界を見せてくれるのがパリに住む外国人の暮らし。
それはフランス人が知らない「もう一つのフランス」です。
以前パリに暮らしていたこともあり、観光大国フランスの影の部分に興味があったため
懐かしさからこの映画を観たいと思いました。

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映画は異邦人の日常生活というよりは恋愛のみを主軸に進んでいきます。
カメラは主人公の不安定な恋愛をただ執拗に映していく。
恋人に捨てられる場面から始まり、次の恋愛が始まり終わるまでを
カメラはまるで空気のように至近距離から追っていきます。
失恋の悲しみと異邦人であることの疎外感が
辛辣な彼女の顔のアップと殺伐としたパリの風景で上手く表現されています。

【ストーリー】
中国人留学生であるホア(花)は、パリでフランス人の恋人に捨てられる。
失意の中、通りを歩いている時に建設工の男マチューと偶然出会う。
粗野でせっかちな性格のマチューに半ば無理やりに関係を迫られ、
ホアはマチューと付き合うようになる。
しかしインテリを憎む肉体労働者のマチューとは喧嘩ばかり。
うまくはいかず、結局ホアは北京に戻ってかつての同棲相手と婚約し、
通訳の仕事も得て、国際的な活躍の場を与えられる。
しかしその後彼女が向かったのは、パリ郊外の貧しいマチューの故郷だった。

【都会の愛と孤独を描き続けてきたロウ・イエ】
監督は『天安門、恋人たち』(2006)のロウ・イエ。
カンヌ映画祭で上映され過激な性描写で話題になりましたが、
彼は中国当局から5年間映画制作禁止処分を受けます。
その後、同性愛を描いた『スプリング・フィーバー』(2010)をゲリラ撮影で制作しています。
中国・上海出身の監督は今まで一貫として描き続けてきた「都会の愛と孤独」を表現してきました。

そして撮影場所を初めて海外に移し、パリを舞台にした最新作が『パリ、ただよう花』です。
原題は『Love and Bruises』ですが、この邦題で正解です。
花は、主人公の名前でもあり、ただパリを漂っています。
パリは彼女にとって流れるための場所。故郷北京と反対にある世界です。

【理由の分からない恋愛】
知性的なホアが好きになるマチューは典型的な肉体労働者。
『預言者』、『Grand central』のタハール・ラヒムが演じています。
インテリ層にいるホアと建設工マチューとの対比が面白いです。
マチューは根は優しいけど、粗野で軽率な面があり、
賭けとして友人に彼女を売ったり、アフリカ人の妻がいることを隠しています。
またホアの友人である知識階級の中国人たちを憎み罵倒します。
普通であれば、こんな男とはすぐに別れるはずですが、
それでもホアは、マチューとの逢瀬を重ねてしまいます。
その理由が私にはよく分かりませんでしたが、
おそらくそこには心とは別に、ただ肉体を求めるしかない
ホアの悲しい欲望があったのかもしれません。

【パリの野生動物】
『パリ、ただよう花』には、本来セックスとはそういうものではないかと思わせる動物的強さがありました。
もともとセックスは食べることや寝ることと同じ人間にある欲求(本能)の一つ。
それも生きることに直結する大事な欲望です。
これがあったからこそ、人類はここまで地球上で生き延びてこられました。
他の生物にもそれは当てはまりますね。
しかし現代の都会の中でその欲望は抑制されています。
でもホアはその抑制された都市に不満をいだいて漂いながらセックスを求めている。
その姿はまるでパリを徘徊する野生動物のようでもあります。
これは本来の生物に帰ろうとする人間の物語とも言えます。

【映像について】
まるでドキュメンタリーのような映像は荒々しく生々しい。
特にホアとマチューが最初に出会った日の二人のやりとりはリアル。
夜に建設現場で無理やりホアをレイプしてしまうシーンの長回しは
その場に居合わせたかのような気まずい臨場感がありました。
ホアの顔のアップが多かったのも印象的で、監督は言葉ではなく
彼女の表情に全てを語らせたかったのかもしれません。

【彼女は人生に何を求めているのか】
彼女は寒々しいパリの中でただセックスを求めているように思えます。
相手を愛しているのでもなく、寂しいのでもなく、ただ性交を重ねる。
しかしそれはどこにも辿り着かない浮遊した空しい生活です。
恋愛に疲れた彼女はようやく北京に戻ってかつての同棲相手と婚約をしますが、
将来を決めた彼女の顔には絶望しかありません。
その表情は自由を求める野生動物としてのホアの本音を浮き彫りにします。
結婚には安定と平和があるが、そこに恋愛や刺激はない。
彼女の絶望は、彼女が安定よりも刺激を大事にしていることを物語っています。
簡単に言ってしまえば、おそらく彼女は自由を求めているのでしょう。
しかしそれはいつも悲しみに変わり、決して手に入らないのです。

生きることは、セックスそのもの。しかしそこには何もない。
どこにもたどりつかない彼女の生き方を見ているとそう思えてしまう。

『パリ、ただよう花』"Love and Bruises"(2013)
監督:ロウ・イエ
出演:コリーヌ・ヤン、タハール・ラヒム
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by kou-mikami | 2014-01-18 10:35 | パリの映画
フランス人は読書してる?パリの読書事情
9月になり、少しずつ秋へ向けて涼しくなってきています。
秋と言えば「読書の秋」ですね。
フランス人はよく本を読んでいるイメージがあります。
バカンス中やピクニック中に日差しの中で寝転びながら読むというスタイルは、
まさに欧米人の休暇といった感じです。フランス映画にも読書するシーンが多いです。
また議論の好きなフランス人は言葉への執着が強いのも事実。多くの優れた作家を出し、
一般の人たちも文学への教養が高いような気がします。
特にパリには出版社や書店が集まる知的な地区も存在します。
しかし実際にフランス人はどれくらい本を読んでいるのでしょう。

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【読書時間は1週間で6.9時間】

パリの読書事情を見てみましょう。
東京と同じで時間に追われがちなパリ。通勤途中のメトロの中で読む人が多いそうです。
他には夜寝る前に読む人も多いようですね。
ベッドの上で上半身裸のまま本を読む姿は、フランス映画でもよく見られる光景です。
フランソワ・トリュフォーの映画『家庭』のように、夫婦がベッドでそれぞれ違う本を読みながらその本の感想を言い合う場面もあるのかもしれません(理想の夫婦像です)。
1週間辺りの読書時間は6.9時間で、1日1時間は読書の時間に費やしていることになりますね(2005年NOP World Culture Score発表)。
生活の中に読書の時間があるのはやはり豊かな文化国といった感じがします。
いくら生活水準が上がっても本を読む時間さえなければ、それは文化国とは言えないのかもしれません。
フランス語以外の本では英語の次に日本語の本が多いというのも、日本人にとっては嬉しいですね。
おそらく村上春樹の小説や日本の漫画の影響もありそうです。


【やはり紙が好きなフランス人】

2009年のフィガロ紙の記事によれば、電子書籍などの画面で読むよりは紙をめくって楽しみたいという人が多いようです。
映画や音楽はダウンロードして電子端末で楽しみたいという人が40%いたのに対して、
本をダウンロードしたいという人はたったの5%。やはり紙としての本を重要視していることが分かります。
パリに昔ながらの装丁職人(リルユール)が存在するのもフランス人が本そのものにいかに愛着を持っている証拠だと思います。

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【ベストセラーだけに偏らない読書趣向】

日本ではベストセラーがたくさん売れてその他の本はあまり売れない状況ですが(俗にいう出版不況)、
フランスではベストセラーの売り上げは全体のわずか5%ほどで、
それ以外の本の売り上げが大部分を占めているとのことです。
これはフランス人がそれぞれの独自の好みの本を買っていて、
書店側も読者の希望に応えた多種多様な本をそろえていることを意味します。
一時の流行にとらわれない真の読書家が多いということかもしれません。
そのため書店のクオリティ(品ぞろえや陳列方法)も非常に高く、
かつお店それぞれに独自の味があります。
日本のようにどのお店に行っても同じ本が並んでいるということはありません。
パリの書店巡りは本好きにはたまらないパリ散策の一つです。


【一年間で1冊も本を読まない人が3割も】

しかし驚くべき結果もあります。2009年にラ・クロワ紙が18歳以上のフランス人を対象に行った調査によると、フランス人の30%は年間1冊も本を読んでいないという結果が出ました。
年間1~5冊読んでいる人は少し多い34%です。年間6~10冊読む人は13%と急に割合が少なくなります。
また逆に50冊以上読む人はフランス国民の3%いるという事実も見逃せません。
やはりフランス人の教養は読書によって作られているようですが、
サン・ジェルマン・デ・プレ周辺も出版社が減ってきたようで、
今後フランス人の読書人口が減っていくのではという危惧もあります。


【パリにあるワインが飲める読書バー】

読書離れが進んでいるかにみえるフランスですが、パリには読書に関する素敵なお店がたくさんあります。
その中のひとつLa Belle Hortense(ラ・ベル・オルテンス)はワインが飲める読書バー。
手前はバーになっていますが、奥に入るとプライベートな書斎スペースがあり、ワインを飲みながら好きな本を手に取って読むことができます。
ここの赤ワインはとても上質で、読書にもぴったり。
フランスのかわいい絵本やパリの写真集もあるので気軽に楽しむことができます。
知的なフランス人カップルがいることもあっていろいろ刺激を受けることも。
秋のパリに行かれる方は一度行ってみてはいかがでしょうか。

La Belle Hortense
住所:31 rue Vieille du Tempre, 75004 Paris
最寄メトロ:サン・ポール駅(St-Paul)

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本の祭典「サロン・ドゥ・リーヴル」

他にフランス人の読書好きを体験できるイベントとしてサロン・ドゥ・リーヴル(本のサロン)があります。
これは毎年様々な出版社が集まって本を紹介・販売する国際的な書籍見本市。
海外からの出展もあり、フランス人にとっては新たな国の本に出会えるチャンスでもあります。
人気のコーナーは作家のサイン会や講演会など。
毎年一つの国に焦点を当ててその国の文学を紹介するイベントもあり、
2012年は日本が招待国に選ばれました。開催期間は多くの本好きが集まり、
新しい本や作家と出会う機会となる世界的な読書イベントです。
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by kou-mikami | 2013-09-03 21:04 | パリの文化
クロード・ミレールの遺作『テレーズ・デスケルウ』
2013年のフランス映画祭で『テレーズ・デスケルウ』(Therese Desqueyroux)を観た。
この映画を観ることにした大きな理由は2つ。
女性のダークサイドを描いた映画であるということと
主演が『アメリ』で有名になったオドレイ・トトゥだということ。
2012年に他界したクロード・ミレール監督の遺作となったこの映画は、
私にとってずっしりとした印象を残す素晴らしい映画だった。

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ストーリー
女性のダークサイドというのは映画祭のチラシに書かれていた言葉だが、
原作を読むと、それは一言では説明できないもっと深いものであることに気づく。
原作はフランソワ・モーリアックの小説『テレーズ・デスケルウ』(1927)。
舞台は20世紀初頭のフランス・ランド地方アルジュルーズ。
財産目当ての家同士の結婚が普通だった時代の女性テレーズが主人公である。
良家の娘だった読書家のテレーズはデスケルウ家の長男ベルナールと結婚する。
嫁ぎ先のデスケルウ家は広大な松林を所有しており、結婚によってテレーズも
松林の一部を財産として手に入れることになる。それも計算の一つであった。
そして彼女はテレーズ・デスケルウとして頼りになるよき妻になろうとした。
周囲の期待応えて普通に結婚すれば、全てはうまくいき悩みも消えると思っていた。

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しかし平凡で想像力のないベルナールとの結婚は退屈そのものだった。
夫は猟にしか興味を持たず、彼女の文学や精神生活について理解してくれない。
子どもの頃から巣食っていた彼女の空虚な心の穴は徐々に広がり続ける。

原作の文章を借りれば、「テレーズが平和だと信じていたものは、実は仮眠の状態であり、胸の中にひそむ爬虫類の冬眠にすぎなかった」。この「爬虫類」という表現がその後彼女が起こす不可解な事件を暗示しているようで恐ろしい。その予感は結婚の日当日から始まっており、彼女は親友のアンヌとキスをしたとき「突然自分が虚無感にとらえられた」ように覚え、「自分の内側にあるこのどす黒い力と、おしろいを厚くつけた可愛い姿とのあいだに限りない距離感を感じたのである」。
映画の中のテレーズも結婚式当日に心からの笑顔はなく、どことなくぎこちない不安がつきまとっている。
美しい結婚式であるはずの風景が観る者になんとなく居心地の悪さを感じさせてしまう映像である。
マリッジブルーではなく、結婚当日にさえこのように感じてしまう彼女の闇とはどんなものなのか、その後の展開が非常に興味深くなる場面だ。

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そんな空虚な結婚生活が始まったある日、ベルナールの弟でテレーズの幼馴染だったアンヌが家族が選んだフィアンセとの結婚に反対し、貧しい家の青年に恋する。
アンヌと青年の恋をやめさせるように夫から頼まれたテレーズは青年のところに行って話をするが、逆に青年の文学への情熱や精神生活に心を動かされる。青年が告げたのは恋の素晴らしさであり、家同士の結婚の空しさであった(ちなみに青年がテレーズに『地の糧』を読んだかと聞くシーンがあった。これはアンドレ・ジッドの小説で、カミュが『孤島』に次いで影響を受けた書物)。
恋愛の素晴らしさを目の当たりにしたテレーズは、ついに夫に対してある恐ろしい計画を実行する。

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女性が持つ空虚な穴を描いた恐ろしい映画
このようにストーリーだけを書くと、よくある愛憎の殺人ドラマに見えるかもしれない。
しかしこの小説の真に恐ろしい部分は、彼女を殺人に駆り立てた明確な理由がないところである。
現在のドラマでなら不倫・保険金・憎しみなどが挙げられるが
彼女は夫を憎んでいるわけでもお金を盗もうとするわけでもない。
この物語が描こうとしているのは殺人ではなく、テレーズという不可解な女性が持つ空虚な穴の巨大さである。そしてこれは20世紀初頭を描きながら、非常に現代的であり、今もまさにこのような女性がどこかにいるのではないかと思わせる。おそらく人を殺すのに明確な動機というものはなく、様々な種類の不安の滴が複雑に心の池に溜まり続け、それが飽和点に達した時に起こるものなのかもしれない。

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原作者モーリアックは『テレーズ・デスケルウ』の冒頭でこう書いている。
「テレーズ、あなたのような女がいるはずはないと多くの人がいう。だがぼくには、あなたは存在しているのだ。長い歳月のあいだ、ぼくはあなたを探り時には追いすがり、その素顔をみつけようとしてきた」(遠藤周作訳)
つまりモーリアック自身も彼女の本当の考えをつかみきれないでいる。また彼女が頭がよく普通の結婚に幸せを感じられなかったのも要因と言える。しかしそのような不可解な闇をもつ人間こそ、本当に語るに値する人物なのだということだろう。そしてそんな人物を描いた本作は私の心を強く動かす。
訳者の遠藤周作もテレーズの姿を求めてランド地方に旅に出ている。

事件後の空虚な生活までも描いた作品
そしてこの映画の注目すべき点は、事件が解決して終わりではなく、「事件後の生活」に重きを置いているところである。夫への殺人未遂を起こした彼女は世間体を保とうとする夫の画策で免訴となるが、その後夫との夫婦生活を無理やりに継続させられ、幽閉生活の中で今まで以上の苦しみを受ける。そして幼い頃からの親友だった夫の妹アンヌとも深い溝ができ、誰も彼女に寄りつかなくなる。家族だけでなく地元の誰もが彼女が夫を殺そうとしたと思っている。それは事実だったが、何故殺人に至ったのかその理由が彼女自身にも分からない。

自由となって彼女が手にしたものは何だったのか
その後、ようやく自由の身になった彼女はカフェで夫と別れてパリの雑踏に消えていく。その自由は離婚をしないという制限付きの自由であったが、彼女はようやく自分の生活を見つけたのだと思う。しかしそれはどんな生活なのだろう。最後に彼女が見せたわずかな微笑みは何を意味していたのだろう。物語はそこで終わっているので、その跡の彼女の足取りはは分からないが、私には彼女の気持ちが少し分かる気がする。今の空疎な生活からどこかへ逃げたいという気持ちだ。しかし逃げたところで人生の解決策はどこにもない。その空しさを描いた映画なのかもしれない。人生という不可解なものに立ち向かう女性を描いた恐ろしくも考えさせられる映画であった。

映画と小説の違い
今回観た映画はほとんど原作に忠実に作られていて、観ていて心地よかった。フランスにあるランド地方の美しい松林。ランドとは「荒れ地」を意味し文字通り水はけの悪い荒野だったが、19世紀より松の森が植えられ美しい場所となった。その風景を映像として観ることができたのはよかった。
特にテレーズの少女時代の映像は非常に美しい。幼馴染のアンヌと松林の中を自転車で走り抜けるシーンや、湖に浮かぶ小舟の中で読書をするシーン。よき昔の回想シーンとしてじっくりと語られる原作と違いほとんど一瞬で終わってしまうのがもったいなかったが、2時間という制限の中では難しいのだろう。

一方、ランド県の美しい自然と対比されるのはそこに住む伝統を守る一家の色彩のない閉塞的な生活。松の森一帯を所有するデスケルウ家に嫁いだテレーズの空虚で演劇のような生活が静かに流れる。
オドレイ・トトゥの感情を隠したような人妻の演技はとてもよかった。幸せを知らず夫と表面的に付き合い、タバコを吸う彼女は美しい女性として描かれてはいない。しかし不思議な魅力がありスクリーンから目が離せない。

原作では彼女の殺人未遂が免訴となり、家路に帰るシーンから始まる。そこから過去の回想をして事件を起こすまでの経緯が語られる。それに対して映画では過去から現在への時間軸通りに物語が進行していく。活発で読書好きだった少女時代、結婚してからの空虚な生活、事件、幽閉生活、パリでの夫との別れ。物語の順序で言えば、やはり原作の構成のほうが面白いだろう。回想シーンで徐々に過去が明らかになっていき、全てが分かったところで、現実のクライマックスが訪れる流れのほうがダイナミックだ。しかしその違いを比較するのも楽しいし、これほど原作も映画も素晴らしい作品は稀である。

ちなみに『テレーズ・デスケルウ』は50年前の1962年にジョルジュ・フランジュ監督によって最初に映画化されている。そちらの作品もいずれ観てみたい。

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フランス映画祭2013の会場にて(上映作品のポスター)

『テレーズ・デスケルウ』(Therese Desqueyroux)
監督:クロード・ミレール
出演:オドレイ・トトゥ、ジル・ルルーシュ、アナイス・ドゥムスティエ
2011年/フランス/110分
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by kou-mikami | 2013-06-30 19:05 | パリの映画



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